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滝沢馬琴の著述を手伝った路女とその祖父・土岐村検校(2)

 土岐村梅一は、天明9年(1789)正月元日の権成。
検校の任官記録である『表控』には「寛政元年正月元日」と記載されているが、寛政への改元は1月25日のことであるから、元日の時点ではまだ「天明9年」である。
土岐村梅一の坊主は島村広一、祖父坊主は藤上喜古一と『表控』にある。
しかし『三代関』では、島村広一の坊主は植島むめ一とあり、祖父坊主が藤上きこ一(喜古一)である。
資料に若干の混乱がみられるが、藤上(藤植)流胡弓の名手として知られた藤上検校の系譜に連なる人物であることには間違いない。

 土岐村梅一は師匠の島村検校の歿後、三沢検校の同宿弟子となる。
そして、三沢検校の遺言状を偽造したとして、座中取締役の藤植親矇一に告発されて、寛政4年(1792)9月2日、欠官不座となる。
土岐村梅一のその後の消息は明らかではないが、不座から足かけ19年目の文化7年(1810)、惇信院(徳川家重)の五十回忌法要の折に御赦となっている。

 土岐村梅一の裁判の記録が『向方御赦例書』にある。
その記録によると、座頭に対する規定にしたがって惣録へ引き渡し、欠官不座の上、「江戸十里四方・武蔵・山城・大和・和泉・摂津ならびに生国相模」を追放の処分を下されている。
息子の土岐村玄立が紀州の医師であったことからすると、不座ののちは紀州へ行ったのかもしれない。
たとえば鍼医としての実績を持ってでもいたならば、座を離れても糊口をしのぐ手段はあったのだろう。

 孫娘の路女(1806~1858)が知っているのは、検校としての土岐村梅一ではなく、座を離れたのちの姿である。
身近に盲人を見て育った路女にとっては、ずっとのちに馬琴の口述筆記の手助けをするようになったのも、自然なことであったかもしれない。



《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 三代関
国立国会図書館のデジタル化資料 表控
国立国会図書館のデジタル化資料 向方御赦例書 39盲人非人之部

《関連記事》
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タグ : 滝沢馬琴 路女 当道 検校 土岐村梅一 不座

滝沢馬琴の著述を手伝った路女とその祖父・土岐村検校(1)

 『椿説弓張月』、『南総里見八犬伝』などで知られる江戸時代の戯作者滝沢馬琴(1767~1848)が晩年に失明し、その息子の妻である路女(1806~1858)が口述筆記によってその著述の手助けをしたことはよく知られている。
今でいう対面朗読や代筆のボランティアのさきがけのようなものであるとも言えよう。


東京都文京区小日向の深光寺にある滝沢馬琴の墓。"190512-1.jpg"
 (写真1)東京都文京区小日向の深光寺にある滝沢馬琴の墓。

東京都文京区小日向の深光寺にある路女の墓。"190512-2.jpg"
 (写真2)同寺にある路女の墓。墓石左に「路女の墓」という立札がある。

 路女は紀州藩医師の土岐村玄立という人の娘であるが、玄立の妻の父すなわち路女の母方の祖父にあたるのが、土岐村検校梅一である。

 馬琴の歿後から書き継がれた『路女日記』の中に、次のような記述がある。

    ----------------
 一 八時頃、絶交の兄土岐村元祐伜 土岐村玄十郎来ル。初来也。右者、祖父土岐村検校様告文書此方ニ有之候ハヾ申受度由 玄十郎申といへども、容易ニ不被渡候ニ付、右告文書行方不知由申、断置く。

 (路女日記 嘉永5年8月30日)
    ----------------

 土岐村玄十郎という、路女の甥にあたる人物が訪ねてきて、土岐村検校の告文があるか、あるならば申し受けたいと言ってきたという。
これに対して路女は、告文は行方不明になったと答えて渡さなかったということである。

 逆に言うならば、土岐村検校の告文はこの時点で確かに路女の手元にあったということになる。
土岐村梅一が検校になったのは天明9年(1789)正月元日のこと。
告文は『路女日記』の日から60年あまりも前の文書であるが、子孫の手にしっかりと保存されていたようである。

タグ : 滝沢馬琴 路女 当道 検校 土岐村梅一 告文

「弘化6年」権成の検校

 4月1日、平成に代わる新しい元号「令和」が発表された。事前に周知を図り混乱を回避するため、改元の1か月前の発表となった。

 江戸時代の検校の任官記録である『座下控』には、先行する『三代関』・『表控』と同様、検校任官者の名前とともに、流派、坊主、祖父坊主、任官の年月日が記載されている。

 その中に、真野八重一という検校の記録がある。

 それを見ると、なんと驚いたことに、

 戸嶋         尾州名古屋
 一 真野 八重一  坊 高村勾当
           祖 藤沢勾当
    弘化六酉年二月十七日権

とあるのである。

 弘化という年号は、天保15年(1844)が12月2日に弘化元年と改められたことで誕生した(もっとも、この年の12月2日はグレゴリオ太陽暦に換算するとすでに1845年になっていたのだけれども)。そして、弘化5年(1848)は2月27日をもって嘉永に改元された。西暦に単純に換算すると、弘化は1844年から1848年までにあたる。実際に用いられていたのは3年と3か月ほどの期間である。

 『座下控』には、真野八重一の権成は「弘化六酉年二月十七日」と記されている。当然のことながら、弘化6年という年は存在せず、真野八重一が検校に任官した「酉年」は嘉永2年(1849)である。次の藤田民部一の任官は「同年二月廿七日権」である。その次の杉嶋風香一に至って「嘉永二酉年十月十六日」と初めて「嘉永2年」という年が記されるのである。

  『座下控』に記された真野八重一と藤田民部一

 ちなみに、『座下控』で真野検校の前に記載されている小嶋松学一と高里千祐一という二人の検校は任官の年月日がそれぞれ「弘化5年9月18日」と「弘化5年10月22日」と書かれている。これらは弘化から嘉永への改元後の日付であるから、この両名の任官の年も「嘉永元年」が正しい。

 弘化から嘉永への改元は真野・藤田両検校の任官の約1年も前のことであるが、当時の職屋敷は改元されたことを知らなかったのか、気にも留めなかったのか、不思議なことである。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 座下控

タグ : 当道 検校 真野八重一 藤田民部一

塙保己一と武蔵武士たち

 塙保己一の先祖が小野篁であるというのは有名な話である。
塙保己一の先祖の家系を記した『温故堂塙先生伝』の冒頭には次のようにある。

 小野篁の七世の孫の孝泰(一説に隆泰)という人が武蔵に下向し、その孫の太郎資孝(一説に資隆)が横山党の始祖となった。
資孝の弟にあたる三郎時資が猪俣党の始祖である。
塙保己一の直接の先祖にあたるのは資孝・時資の弟の八郎義兼である。
その孫の季兼が母方の祖父源有兼の養子となって、村上源氏系の海老名氏を称する。
季兼の子の季定(一説に季貞)から海老名、本間、国府などの諸氏が分派したが、季定の子の季時が荻野氏を称するのである。

 一族は、横山党の時代には武蔵国多摩郡を本拠とし、その後、相模国に勢力を張った。
海老名は現在の神奈川県海老名市であり、荻野は厚木市にその地名が残っている。

 篁を初代として数えると、

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩横山資孝

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩猪俣時資

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩横山義兼 ― ⑪盛兼 ― ⑫海老名季兼 ― ⑬荻野季時 … (途中略)… 荻野宇右衛門 ― 宇兵衛 ― 寅之助(=塙保己一)

となる。

 荻野五郎季時は源平の争乱のころの人で、平氏にしたがったために滅ぼされたが、その子は源氏について鎌倉の御家人となったという。
『温故堂塙先生伝』は荻野季時の子孫の名を明記していないが、近世になって武蔵国児玉郡の保木野村に移住し、その家系から塙保己一が出たのである。

 横山氏から分かれた猪俣氏は武蔵国北辺の那珂郡を本拠とした。
横山党も猪俣党も武蔵七党のうちに数えられる。
猪俣党からは、12世紀後半に有名な猪俣小平六範綱(?~1192)が出る。
一の谷の戦いで平家方の越中前司盛俊を討ったことが『平家物語』巻九「越中前司最期」に記される。

 『平家物語』の「越中前司最期」の次は、「忠度最期」である。
薩摩守平忠度(1144~1184)は岡部六弥太忠澄(生歿年未詳)に討たれる。
忠澄は討ち取った敵将の箙に結び付けられた文に
  行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし    忠度
という和歌が書かれていたことで、相手が薩摩守忠度であることを知ったという。

 岡部氏は猪俣氏の同族で、猪俣範綱と岡部忠澄はそれぞれの祖父が兄弟の関係にある「またいとこ」であった。

 ⑩猪俣時資 ― ⑪時範 ― ⑫忠兼 ― ⑬正家 ― ⑭資綱 ― ⑮範綱

 ⑩猪俣時資 ― ⑪時範 ― ⑫忠兼 ― ⑬岡部忠綱 ― ⑭行忠 ― ⑮忠澄

 塙保己一の先祖の家系に連なる猪俣範綱や岡部忠澄の活躍を、のちの時代に盲目の琵琶法師たちが語っていたのである。


埼玉県深谷市普済寺の岡部忠澄一族の墓所。
 (写真1)埼玉県深谷市の岡部忠澄一族の墓。

埼玉県児玉郡美里町猪俣の猪俣範綱一族の墓所。
 (写真2)埼玉県児玉郡美里町の猪俣範綱一族の墓。

タグ : 塙保己一

座中取締役の当道改革をめぐって 9

 寛政4年(1792)6月27日、寺社奉行は江戸惣録の伊東検校と職十老惣代の豊永検校を呼び出す。
藤植・塙の両検校が座中取締役を仰せ付けられてから1年近くが経過しようとしていたが、京都職屋敷の対応は緩慢で、「兎角等閑の挨拶のみにて此の節迄一向壱人も罷り下り申さず候」というありさまであった。

 寺社奉行の追及に対して豊永検校は職屋敷の江戸下向を約束した。
結解の玉崎検校栄一と職事の滋野数馬が江戸に召喚され、8月6日に寺社奉行へ参内している。

 取締役は、二老・北岡、三老・亀田、四老・福島、五老・豊藤、六老・真田の5検校に小科仰せ付けという処分を申し渡すよう、職屋敷に要求した。
小科とは「当道式目」に規定された罰則で、検校に対しては三百疋(銭3貫文、金3分に相当)の罰金である。
また、職惣検校・栗原木曽一は自ら謹慎、その代わりに十老の者が交代で職屋敷に詰めるということとなった。
すでに老齢の栗原惣検校は適切な判断力も衰えていたかもしれないが、隠居はせず、結果的に寛政11年(1799)11月6日に死去するまで職惣検校を務めた。
藤植・塙両検校が座中取締役の任にあった8年間、京都の職惣検校は一貫して栗原きそ一がその地位を占め続けていたことになる。

 職屋敷の十老検校に対するこれらの処分は、旧態依然とした職屋敷に対して、幕府直属の座中取締役の権威を示す機会となったとは言える。

 9月、両検校が寺社奉行に出仕した際の口上に、「紀州熊本(肥後熊本の誤記)に罷り在り候 杉谷検校欠官の儀、私共へ掛合もこれ無く申し渡し」云々とある。
熊本の杉谷検校道一は、寛政4年2月に欠官となったようであるが、その処分を取締役に無断で決定したことを非難している。

 杉谷検校の罪状は、密通を犯したということであったが、前年の寛政3年(1791)5月に藩庁の呼び出し・御吟味を受け、12月に「官を剥ぎ、庶人に申し渡せ候上七十笞」の刑を受けている。

 元来、当道座は独自の裁判権をも有する自治的な組織であったが、少なくとも熊本藩の地域においては、座は裁判権を失い、刑事上の罰則については検校という高位の者であっても一般人と同等に扱われるようになっていた。
さらに注目すべきは、「官を剥ぎ」という記述である。
「七十笞」という刑事罰のみならず、官位の剥奪までもがすでに座の手を離れて藩の管轄に移行していることがわかる。
(「近世の座頭と当道座」,29~30ページ)

 京都職屋敷による杉谷検校の欠官の決定には、このような経緯があった。
職屋敷が幕府と座中取締役に断りなく杉谷検校を処分したのは、熊本藩の裁定を追認したに過ぎない。
地方の座頭集団が地域で生きていくためには、京都との関係よりも、地域の支配者 ―― 杉谷検校の件の例で言えば、熊本藩庁 ―― との関係のほうが重要だった。
京都を遠く離れた全国の各地方においては、職屋敷の権威はすでに低下していた。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
緒方晶子;「近世の座頭と当道座」

タグ : 当道 検校 藤植親矇一 塙保己一 座中取締役

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