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米山検校の故郷

 長岡からは6つ目、柏崎からは5つ目だから、どちらからもさほど遠くはない。
長岡から乗車時間20分ほどで無人の長鳥駅で降りると、駅前に「長鳥いにしえロード」という説明板がある。
説明板には、「昭和18年に設置された長鳥信号所を駅に昇格させるため、長鳥地区民が旧国鉄に請願。駅舎建設の全額を、身銭を切って負担した悲願の駅である。昭和28年12月15日開業。」とある。

 駅があるのは西長鳥。
米山検校の故郷は、山の向こう側の東長鳥だ。
その中の杉平という地区のはずれに米山検校の生家や父母の墓、そして米山検校の御礼塔がある。

杉平の米山検校御礼塔

 杉平のほぼ中央に「検校塾」という建物がある。
訪れた日は閉まっていたが、地区の公民館的な性格を備えた施設なのか、「長鳥工房」「長鳥地区子供会」という看板も並んで掲示されている。
この建物の前に「杉平 いい里マップ」があった。
地図は南東が上で、長鳥駅は上方の図郭外、山を越えた先にある。

杉平 いい里マップ

 さらに、「検校塾」の近くには咸臨丸を模した船と「米山検校の碑」があった。

  咸臨丸を模した船

  米山検校の碑

 「米山検校の碑」には、こうある。

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  米山検校(1704~1771)
 米山検校は東長鳥・杉平の山上家に生まれ、幼くして光を失いましたが、逆境のなか苦労して江戸に出て、杉山流鍼道をきわめました 
努力と才能が水戸光圀公に認められ、その後、盲人官位最高の「検校」にのぼりつめました 
富をたくわえながらも、質素倹約の人で、ふるさと長鳥郷が大飢饉の際には救援米を送り、当時の御礼塔が今でも残されています
 臨終の直前、「親の財産をあてにするな」と証文に火をつけて灰にし、我が子に独立自尊を教え、その精神は曽孫である
勝海舟に受け継がれました
        社団法人 柏崎青年会議所
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 「杉平 いい里マップ」の図の上のほうに、さらに二つの御礼塔が書かれている。
大角間とセナカ峠にある御礼塔である。
大角間は杉平よりもさらに上流部(南東方向)の集落で、セナカ峠はさらにその先。
いずれも、本来の距離で言えばこの図には収まらない場所である。


タグ : 検校 当道 米山銀一 鍼術

カラオケコンクール

 8月6日のことである。
埼玉県深谷市の養護盲老人ホームひとみ園で、カラオケコンクールが行われた。
コンクールの正式名称は、「カラオケ指導員1級、カラオケ指導員2級、カラオケ指導員3級認定第1回全国視覚障害者等カラオケコンクール」という。
「カラオケ指導員」の資格を認定するものであって、同好の士の単なるお楽しみ会ではない。

 このコンクールを主催したのは特定非営利活動法人全国カラオケ文化振興協会、後援は社会福祉法人日本失明者協会。
ひとみ園の園長を務める茂木幹央さんの発案である。

 このコンクールの開催は視覚障害者の職域拡大の取り組みの一環であると、茂木さんは言う。
「カラオケ指導員1級・2級・3級」という肩書を持つことにより、少なくとも地域のイベントでのゲストとか審査員とか、何らかの活躍の機会が得られ、可能性が開かれるとしたら、好ましいことであろう。

 職域拡大というと大げさに聞こえるかもしれないが、それは就労や社会参加という言葉をせまい意味でとらえていたからか。
こんにちのわれわれがごく普通にイメージしている就労とは、大量生産・大量消費を基軸とする近現代の産業社会の中で、社会に組み込まれて社会の歯車となることであったかもしれないのだ。
そう考えると、茂木さんの発想のユニークさや先見性には敬服させられる。

 コンクールには全国から19人の参加申し込みがあり、当日欠席だった2人を除いた17人が自慢の歌声を披露した。
実施要項によれば、歌詞は読んでもよいとのことであるが、参加者の半数ほどが、さまざまな形で「歌詞」を利用していた。
カラオケの画面を見ながら歌う弱視の人、持参した点字の歌詞をテーブルに置いて触読しながら歌う人、肩からかけたピンディスプレイを脇腹のあたりで片手で触って歌う人。


 第1回のコンクールで、カラオケ指導員に認定された方々は次のとおり。

 〇カラオケ指導員1級
 鈴木秀俊さん(静岡県)

 〇カラオケ指導員2級
 柿本一志さん(奈良県)、廣川康之さん(埼玉県)

 〇カラオケ指導員3級
 中尾朋之さん(北海道)、濵﨑雄三さん(大阪府)


タグ : 音楽 カラオケ 茂木幹央

米山検校の鍼道学校設立の願文

 新潟県上越市の上越市福祉交流プラザの3階に高田盲学校顕彰室がある。
日本で3番目にできた古い歴史を有する高田盲学校は2006年3月限りで閉校となり、その跡地が福祉交流プラザとなっている。

 顕彰室の内部には、多くの書籍、教材、写真、各種大会の優勝カップや賞状などと並んで、江戸時代の文書が展示されている。
米山検校銀一(1704~1771)による鍼道学校設立の願文である。


米山検校の鍼道学校設立の願文
  米山検校の鍼道学校設立の願文


    ----------------
  恐れながら書付を以て御願ひ候
一、私儀、越後国松平越中守様御領分三嶋郡長鳥村に出生仕り、親元不如意に御座候て幼少より江戸表へ罷り出、御医師嶋浦惣検校の弟子に相成り、杉山流の鍼道相学び、所々御歴々様方にて御療治仰せ付けられ、鍼治の御礼物を以て只今にては少々町屋鋪等も所持仕る様に罷り成り候段、偏へに鍼道の冥加に相叶ひ候儀と有り難く存じ奉り候。
 然る所、六七年以来左右の指痺れ、鍼道相勤め難く、御出入仕り候方々へも御断り申し上げ、療治相廃シ罷り在り候。
 元来鍼術を以て出世仕り候所、廃業仕り候段甚だ不本意に御座候。
 これに依り鍼恩を謝シ、第一ニハ御国恩を報し奉りたく、数年の願望にて去冬より杉山流針道指南の学校を相始め、諸国にこれ有る盲人共の内、鍼道相学びたき志ばかりにて貧窮故に空しく無芸に暮し候盲人共を相招き鍼術指南仕り候。
  (送りがな、句読点を補い、適宜改行した)
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 願文はまだ続くのだが、展示されているものを読むことができるのはこのあたりまで。

 願文には、次のような説明が添えられている。
米山検校のすぐれた先見性を示したものと言えよう。

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 この願文は 宝暦四年(一七五四)に越後三島郡長島村(現柏崎市)の出身で盲人であった米山検校が江戸で、鍼治療の技術を教える「鍼道学校」設立の志を立て、無芸貧窮に苦しむ故郷の盲人たちにも自立の道を開いてやりたいと藩主に願い出たもので、江戸期の盲人教育の数少ない貴重な資料である。
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 説明では「長島村」となっているが、正しくは「長鳥村」。
よく間違われるようだ。
柏崎市の東のはずれで、信越本線に長鳥という駅もある。


《参考文献》
 徳間佳信;『評伝 銀のつえ  米山検校をさがして』,平成24年.

《関連記事》
米山検校の師匠

タグ : 検校 当道 米山銀一 鍼術 高田盲学校

滝沢馬琴の著述を手伝った路女とその祖父・土岐村検校(2)

 土岐村梅一は、天明9年(1789)正月元日の権成。
検校の任官記録である『表控』には「寛政元年正月元日」と記載されているが、寛政への改元は1月25日のことであるから、元日の時点ではまだ「天明9年」である。
土岐村梅一の坊主は島村広一、祖父坊主は藤上喜古一と『表控』にある。
しかし『三代関』では、島村広一の坊主は植島むめ一とあり、祖父坊主が藤上きこ一(喜古一)である。
資料に若干の混乱がみられるが、藤上(藤植)流胡弓の名手として知られた藤上検校の系譜に連なる人物であることには間違いない。

 土岐村梅一は師匠の島村検校の歿後、三沢検校の同宿弟子となる。
そして、三沢検校の遺言状を偽造したとして、座中取締役の藤植親矇一に告発されて、寛政4年(1792)9月2日、欠官不座となる。
土岐村梅一のその後の消息は明らかではないが、不座から足かけ19年目の文化7年(1810)、惇信院(徳川家重)の五十回忌法要の折に御赦となっている。

 土岐村梅一の裁判の記録が『向方御赦例書』にある。
その記録によると、座頭に対する規定にしたがって惣録へ引き渡し、欠官不座の上、「江戸十里四方・武蔵・山城・大和・和泉・摂津ならびに生国相模」を追放の処分を下されている。
息子の土岐村玄立が紀州の医師であったことからすると、不座ののちは紀州へ行ったのかもしれない。
たとえば鍼医としての実績を持ってでもいたならば、座を離れても糊口をしのぐ手段はあったのだろう。

 孫娘の路女(1806~1858)が知っているのは、検校としての土岐村梅一ではなく、座を離れたのちの姿である。
身近に盲人を見て育った路女にとっては、ずっとのちに馬琴の口述筆記の手助けをするようになったのも、自然なことであったかもしれない。



《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 三代関
国立国会図書館のデジタル化資料 表控
国立国会図書館のデジタル化資料 向方御赦例書 39盲人非人之部

《関連記事》
座中取締役の当道改革をめぐって 7
座中取締役の当道改革をめぐって 8

タグ : 滝沢馬琴 路女 当道 検校 土岐村梅一 不座

滝沢馬琴の著述を手伝った路女とその祖父・土岐村検校(1)

 『椿説弓張月』、『南総里見八犬伝』などで知られる江戸時代の戯作者滝沢馬琴(1767~1848)が晩年に失明し、その息子の妻である路女(1806~1858)が口述筆記によってその著述の手助けをしたことはよく知られている。
今でいう対面朗読や代筆のボランティアのさきがけのようなものであるとも言えよう。


東京都文京区小日向の深光寺にある滝沢馬琴の墓。"190512-1.jpg"
 (写真1)東京都文京区小日向の深光寺にある滝沢馬琴の墓。

東京都文京区小日向の深光寺にある路女の墓。"190512-2.jpg"
 (写真2)同寺にある路女の墓。墓石左に「路女の墓」という立札がある。

 路女は紀州藩医師の土岐村玄立という人の娘であるが、玄立の妻の父すなわち路女の母方の祖父にあたるのが、土岐村検校梅一である。

 馬琴の歿後から書き継がれた『路女日記』の中に、次のような記述がある。

    ----------------
 一 八時頃、絶交の兄土岐村元祐伜 土岐村玄十郎来ル。初来也。右者、祖父土岐村検校様告文書此方ニ有之候ハヾ申受度由 玄十郎申といへども、容易ニ不被渡候ニ付、右告文書行方不知由申、断置く。

 (路女日記 嘉永5年8月30日)
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 土岐村玄十郎という、路女の甥にあたる人物が訪ねてきて、土岐村検校の告文があるか、あるならば申し受けたいと言ってきたという。
これに対して路女は、告文は行方不明になったと答えて渡さなかったということである。

 逆に言うならば、土岐村検校の告文はこの時点で確かに路女の手元にあったということになる。
土岐村梅一が検校になったのは天明9年(1789)正月元日のこと。
告文は『路女日記』の日から60年あまりも前の文書であるが、子孫の手にしっかりと保存されていたようである。

タグ : 滝沢馬琴 路女 当道 検校 土岐村梅一 告文

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