FC2ブログ

「弘化6年」権成の検校

 4月1日、平成に代わる新しい元号「令和」が発表された。事前に周知を図り混乱を回避するため、改元の1か月前の発表となった。

 江戸時代の検校の任官記録である『座下控』には、先行する『三代関』・『表控』と同様、検校任官者の名前とともに、流派、坊主、祖父坊主、任官の年月日が記載されている。

 その中に、真野八重一という検校の記録がある。

 それを見ると、なんと驚いたことに、

 戸嶋         尾州名古屋
 一 真野 八重一  坊 高村勾当
           祖 藤沢勾当
    弘化六酉年二月十七日権

とあるのである。

 弘化という年号は、天保15年(1844)が12月2日に弘化元年と改められたことで誕生した(もっとも、この年の12月2日はグレゴリオ太陽暦に換算するとすでに1845年になっていたのだけれども)。そして、弘化5年(1848)は2月27日をもって嘉永に改元された。西暦に単純に換算すると、弘化は1844年から1848年までにあたる。実際に用いられていたのは3年と3か月ほどの期間である。

 『座下控』には、真野八重一の権成は「弘化六酉年二月十七日」と記されている。当然のことながら、弘化6年という年は存在せず、真野八重一が検校に任官した「酉年」は嘉永2年(1849)である。次の藤田民部一の任官は「同年二月廿七日権」である。その次の杉嶋風香一に至って「嘉永二酉年十月十六日」と初めて「嘉永2年」という年が記されるのである。

  『座下控』に記された真野八重一と藤田民部一

 ちなみに、『座下控』で真野検校の前に記載されている小嶋松学一と高里千祐一という二人の検校は任官の年月日がそれぞれ「弘化5年9月18日」と「弘化5年10月22日」と書かれている。これらは弘化から嘉永への改元後の日付であるから、この両名の任官の年も「嘉永元年」が正しい。

 弘化から嘉永への改元は真野・藤田両検校の任官の約1年も前のことであるが、当時の職屋敷は改元されたことを知らなかったのか、気にも留めなかったのか、不思議なことである。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 座下控

タグ : 当道 検校 真野八重一 藤田民部一

塙保己一と武蔵武士たち

 塙保己一の先祖が小野篁であるというのは有名な話である。
塙保己一の先祖の家系を記した『温故堂塙先生伝』の冒頭には次のようにある。

 小野篁の七世の孫の孝泰(一説に隆泰)という人が武蔵に下向し、その孫の太郎資孝(一説に資隆)が横山党の始祖となった。
資孝の弟にあたる三郎時資が猪俣党の始祖である。
塙保己一の直接の先祖にあたるのは資孝・時資の弟の八郎義兼である。
その孫の季兼が母方の祖父源有兼の養子となって、村上源氏系の海老名氏を称する。
季兼の子の季定(一説に季貞)から海老名、本間、国府などの諸氏が分派したが、季定の子の季時が荻野氏を称するのである。

 一族は、横山党の時代には武蔵国多摩郡を本拠とし、その後、相模国に勢力を張った。
海老名は現在の神奈川県海老名市であり、荻野は厚木市にその地名が残っている。

 篁を初代として数えると、

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩横山資孝

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩猪俣時資

 ①小野篁 …(途中略)… ⑧孝泰 ― ⑨義孝 ― ⑩横山義兼 ― ⑪盛兼 ― ⑫海老名季兼 ― ⑬荻野季時 … (途中略)… 荻野宇右衛門 ― 宇兵衛 ― 寅之助(=塙保己一)

となる。

 荻野五郎季時は源平の争乱のころの人で、平氏にしたがったために滅ぼされたが、その子は源氏について鎌倉の御家人となったという。
『温故堂塙先生伝』は荻野季時の子孫の名を明記していないが、近世になって武蔵国児玉郡の保木野村に移住し、その家系から塙保己一が出たのである。

 横山氏から分かれた猪俣氏は武蔵国北辺の那珂郡を本拠とした。
横山党も猪俣党も武蔵七党のうちに数えられる。
猪俣党からは、12世紀後半に有名な猪俣小平六範綱(?~1192)が出る。
一の谷の戦いで平家方の越中前司盛俊を討ったことが『平家物語』巻九「越中前司最期」に記される。

 『平家物語』の「越中前司最期」の次は、「忠度最期」である。
薩摩守平忠度(1144~1184)は岡部六弥太忠澄(生歿年未詳)に討たれる。
忠澄は討ち取った敵将の箙に結び付けられた文に
  行きくれて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし    忠度
という和歌が書かれていたことで、相手が薩摩守忠度であることを知ったという。

 岡部氏は猪俣氏の同族で、猪俣範綱と岡部忠澄はそれぞれの祖父が兄弟の関係にある「またいとこ」であった。

 ⑩猪俣時資 ― ⑪時範 ― ⑫忠兼 ― ⑬正家 ― ⑭資綱 ― ⑮範綱

 ⑩猪俣時資 ― ⑪時範 ― ⑫忠兼 ― ⑬岡部忠綱 ― ⑭行忠 ― ⑮忠澄

 塙保己一の先祖の家系に連なる猪俣範綱や岡部忠澄の活躍を、のちの時代に盲目の琵琶法師たちが語っていたのである。


埼玉県深谷市普済寺の岡部忠澄一族の墓所。

埼玉県児玉郡美里町猪俣の猪俣範綱一族の墓所。

タグ : 塙保己一

座中取締役の当道改革をめぐって 9

 寛政4年(1792)6月27日、寺社奉行は江戸惣録の伊東検校と職十老惣代の豊永検校を呼び出す。
藤植・塙の両検校が座中取締役を仰せ付けられてから1年近くが経過しようとしていたが、京都職屋敷の対応は緩慢で、「兎角等閑の挨拶のみにて此の節迄一向壱人も罷り下り申さず候」というありさまであった。

 寺社奉行の追及に対して豊永検校は職屋敷の江戸下向を約束した。
結解の玉崎検校栄一と職事の滋野数馬が江戸に召喚され、8月6日に寺社奉行へ参内している。

 取締役は、二老・北岡、三老・亀田、四老・福島、五老・豊藤、六老・真田の5検校に小科仰せ付けという処分を申し渡すよう、職屋敷に要求した。
小科とは「当道式目」に規定された罰則で、検校に対しては三百疋(銭3貫文、金3分に相当)の罰金である。
また、職惣検校・栗原木曽一は自ら謹慎、その代わりに十老の者が交代で職屋敷に詰めるということとなった。
すでに老齢の栗原惣検校は適切な判断力も衰えていたかもしれないが、隠居はせず、結果的に寛政11年(1799)11月6日に死去するまで職惣検校を務めた。
藤植・塙両検校が座中取締役の任にあった8年間、京都の職惣検校は一貫して栗原きそ一がその地位を占め続けていたことになる。

 職屋敷の十老検校に対するこれらの処分は、旧態依然とした職屋敷に対して、幕府直属の座中取締役の権威を示す機会となったとは言える。

 9月、両検校が寺社奉行に出仕した際の口上に、「紀州熊本(肥後熊本の誤記)に罷り在り候 杉谷検校欠官の儀、私共へ掛合もこれ無く申し渡し」云々とある。
熊本の杉谷検校道一は、寛政4年2月に欠官となったようであるが、その処分を取締役に無断で決定したことを非難している。

 杉谷検校の罪状は、密通を犯したということであったが、前年の寛政3年(1791)5月に藩庁の呼び出し・御吟味を受け、12月に「官を剥ぎ、庶人に申し渡せ候上七十笞」の刑を受けている。

 元来、当道座は独自の裁判権をも有する自治的な組織であったが、少なくとも熊本藩の地域においては、座は裁判権を失い、刑事上の罰則については検校という高位の者であっても一般人と同等に扱われるようになっていた。
さらに注目すべきは、「官を剥ぎ」という記述である。
「七十笞」という刑事罰のみならず、官位の剥奪までもがすでに座の手を離れて藩の管轄に移行していることがわかる。
(「近世の座頭と当道座」,29~30ページ)

 京都職屋敷による杉谷検校の欠官の決定には、このような経緯があった。
職屋敷が幕府と座中取締役に断りなく杉谷検校を処分したのは、熊本藩の裁定を追認したに過ぎない。
地方の座頭集団が地域で生きていくためには、京都との関係よりも、地域の支配者 ―― 杉谷検校の件の例で言えば、熊本藩庁 ―― との関係のほうが重要だった。
京都を遠く離れた全国の各地方においては、職屋敷の権威はすでに低下していた。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
緒方晶子;「近世の座頭と当道座」

タグ : 当道 検校 藤植親矇一 塙保己一 座中取締役

座中取締役の当道改革をめぐって 8

 三沢検校の貸付金証文をめぐる一件は、当道が抱える別の問題にも光を当てることになった。
それは、師匠・弟子間の相続の問題である。
三沢検校のところには大名家への多額の貸付金があったわけであるが、検校の遺産はこのような金銭的な財産だけではない。
師匠亡き後の弟子たちが、次にどの検校の弟子になるかという、いわば人的な財産の帰属をめぐる問題である。

 師匠である学問所検校が死亡または引退すると、弟子は別の検校の弟子になる。
弟子の官位昇進に関して京都職屋敷への申請の権限を持っているのは検校だけであるから、師匠がいなくなった弟子は、同じ流派に属する別の検校と同宿堅めをして、同宿の関係の弟子になる。
このような実例は非常に多く、藤植親矇一は師匠の植崎松の一の亡き後、同じ師堂派の三沢検校の同宿弟子となり、塙保己一は雨富須賀一の引退後に同じ妙観派の中浦検校みよ一の同宿弟子となっている。

 寛政4年(1792)12月、座中取締役は寺社奉行に対して「座中伺書」を作成提出する。
この伺書はしばらく放置されて日の目を見ず、その後、修正を施されて寛政8年(1796)5月になって一応の決着を見る。
8か条から成る「座中伺書」の第3条に、同宿に関連した規定が述べられている。

 藤植親矇一の師匠(坊主)の植崎松の一も、塙保己一の師匠(坊主)の雨富須賀一も、ともに検校であったが、師匠が検校ではないという場合もある。
検校ではない者の弟子が検校に任官した場合、学問所として自分の坊主を同宿としてもよいことというのが改定案の骨子である。

 「座中伺書」では具体的な実例を挙げて、不合理を改めたいとしている。
磐瀬検校(元慎一)の坊主は金子勾当であるが、金子の坊主である伊達検校(さんき一)はすでに死去していて、金子は三木検校(誰ノ一)の同宿弟子となっている。
さらに三木検校が死去したため、磐瀬検校は学問所となったが、磐瀬の師匠である金子は検校ではないので、自身は学問所となることはできず、別の師匠の同宿弟子となる必要がある。
それで金子は磐瀬の弟子を引き連れて、こんどは松下検校(豊一)の同宿弟子となった。
そうすると、磐瀬の弟子が昇進した時の配り余りは松下に配当され、磐瀬は配当を受けられないことになる。
不合理なことであるから、これを改めたい。
つまり、金子勾当の弟子である磐瀬検校が、自分の坊主である金子勾当を同宿としてもよいということにしたい、というのである。

 当道には同宿に関する詳細な規定があり、そのことが時に矛盾を生む可能性をはらんでいた。
それは同時にまた、弟子の帰属という人的な財産をめぐる問題がしばしばトラブルのもとになっていたという「現実」を映し出している。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 地

タグ : 当道 検校 座中取締役 藤植親矇一 三沢織一

座中取締役の当道改革をめぐって 7

 座中取締役が幕府の意向に沿って座の再構成の問題に着手していた最中の寛政4年(1792)4月16日、藤植検校親矇一によって一つの新しい事案が提起される。
前職惣検校の三沢検校織一の遺言状をめぐるトラブルの告発である。
それまでの話の流れからすれば、唐突と言ってもよい。

 三沢織一は藤植親矇一の同宿師匠である。
藤植の坊主の植崎松の一という人であるが、その後、三沢と同宿堅めをして三沢の弟子になったのである。

 寛政2年(1790)12月、老齢の三沢が遺言状を作成した時、弟子たちがそれを確認して押印した。
しかし、藤植はそれに納得しなかったので印を押さなかった。

 藤植の主張するところによれば、事の概要は次のとおりである。

 三沢検校のところには奥州二本松藩主丹羽加賀守への貸付金の証文があった。
貸付金は返済されずに年月が経過し、寛政2年のころには証文の債権者は江ヶ崎勾当に変わっていたが、以前三沢が大病を患った際に、証文は三沢方へ返すようにとの遺言があったのにいまだ返されていないとして、三沢の実子である安之丞とその母貞松院が出訴に及んだ。
それに対して藤植は、三沢の言は自分の死後のことをよろしく頼むとの趣旨であって、証文の返還を明言したものではないとして、それには同意せず、遺言状に印を押さなかった。
そこで、三沢の同宿弟子の土岐村検校梅一と安之丞らが共謀して遺言状を切り張りして偽造したのである。

 座中取締役である藤植親矇一によるこの追及は、不正の告発に門戸を開く姿勢を示し、不正に対して厳正に対処することによって、取締役の権威を高めるねらいがあったと考えられる。
この当時、さまざまなところで不正がはびこっていて、すでに小名木検校ら8名の検校の連名による願書が提出され、それとは別に棚橋検校からも京都職屋敷に対する告発がなされている。
このあと、さらに大坂の小野村検校からも同様の告発が出てくるのである。



《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
国立国会図書館のデジタル化資料 向方御赦例書 39盲人非人之部

タグ : 当道 検校 座中取締役 藤植親矇一 三沢織一

| TOP | NEXT >>

プロフィール

1234

Author:1234
FC2ブログへようこそ!

最近の記事

最近のコメント

最近のトラックバック

月別アーカイブ

カテゴリー

ブログ内検索

RSSフィード

リンク

ブロとも申請フォーム