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映画「塙保己一ものがたり」 3

 映画「塙保己一ものがたり」。自殺未遂事件の話の続き。

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 はじめ大人雨富が家にいりし時、そのをしへにまかせ三絃を習けるに、今日ならひ得しものは、一夜が程にわすれて、明日は知らずなりけり。すべて三年が間に、一曲をも全くは覚え得ざるのみか、調子さへ合ざりければ、雨富もせんすべなくて、針治の術を旨と習はせけるに、医書よむ方は人にすぐれて、二度よますれば、其次の度には一文字もたがへず読ほどなりけれど、術にかくれば人よりは遥に劣れり。
 ――『温故堂塙先生伝』
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 音曲も鍼術も(さらに言えば金貸し業も)人並みにできないという劣等感から追い詰められていく。
では、ほかの盲人はみなそれらができたのか? 
なさか、そんなことはないだろう。
それらの盲人の生業が身につかなかったのが日本中で千弥ただひとりだった、とでも言うのならともかく、少なからぬ盲人が当道の組織の下層で千弥と同様に苦境にあえいでいたはずだ。

 これは重要な点だと思う。
これがきちんと描かれないと、千弥ひとりが苦境から脱したサクセスストーリー、負け組から勝ち組になりました、めでたしめでたし、という浅薄な話になってしまいかねない。

 千弥の苦悩は個人の問題ではなく、社会の問題として描かれるべきであろうと考える。


《参照・リンク》
映画『塙保己一ものがたり』
映画「塙保己一ものがたり(仮)」PR動画

タグ : 映画塙保己一

 映画「塙保己一ものがたり」 2

 映画「塙保己一ものがたり」のウェブサイトの解説から。

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 保己一が自殺未遂事件を起こしたのは、今なら中学 3 年生の時のこと。幼くして光を失い、追い打ちをかけるように、最愛の母を亡くしました。寂しさと将来への焦り・・・。そんな中で「江戸に出ればどうにかなる」夢を抱いて大都会へ向かったのです。しかし世間知らずの盲目な保己一にとって、江戸での生活はつらく厳しいものでした。そしてついに挫折。繰り返し自分の身に起きる不幸を嘆き、前途を悲観したのです。しかし、自暴自棄ともいえる生活も、この自殺未遂事件をきっかけに 180 度変わりました。劣等感に苛まれ、俯いて生きてきたそれまでの人生に別れを告げ、喜びのうちに上を向いて歩み始めたのです。保己一の気持ちをそうさせたものは、いったい何だったのでしょうか。
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 自殺未遂事件のあと、前向きな人生を送るようになる、という。
そして「保己一の気持ちをそうさせたものは、いったい何だったのでしょうか」と問う。

 なかなかに難しい問題であると思う。
「江戸に出ればどうにかなる」という希望を抱いて雨富検校に入門した辰之助(のちの塙保己一)。しかし、現実は思うようにはいかなかった。
三絃や鍼術を習ったが不器用でものにならなかった、という話が『温故堂塙先生伝』の中にあり、そのエピソードはいろいろなところに引用されてよく知られている。

 どう描かれるのか?


《参照・リンク》
映画『塙保己一ものがたり』
映画「塙保己一ものがたり(仮)」PR動画

タグ : 映画塙保己一

映画「塙保己一ものがたり」 1

 2022年公開予定の映画「塙保己一ものがたり」の製作企画が進行しているようである。

 同映画のウェブサイトから、その趣旨にあたる部分を抜き出してみる。


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 ヘレン・ケラーが目標としたという江戸時代に活躍した国学者、塙保己一。
 全盲の塙保己一は点字もない時代に、日本古来の貴重な古典文学や雑多な史料を全国から膨大に集め、
 後世に伝えていこうと約670 冊にもなる国史国文の一大文献集『群書類従』を編纂・出版しました。
 全盲でこれほどの大事業をした人は世界中探してもいません。

  『世のため 後のため』

 今日、塙保己一について知る人が少ないことは、日本人として寂しさを覚えます。
 しかしその生涯を知れば、驚かない人はいないでしょう。
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 要するに、塙保己一という人は偉大な人物であるが、そのわりにはあまり知られていないようであり、多くの人に知ってほしいということのようである。
 ここで紹介される塙保己一像がどのようなものになるか、興味深い。

《参照・リンク》
 映画『塙保己一ものがたり』
 映画「塙保己一ものがたり(仮)」PR動画

タグ : 映画塙保己一

佐藤自楽の墓

 谷中霊園に佐藤自楽(1808~1891)の墓がある。
佐藤自楽は、当道廃止前は長堀(永堀)検校、佐藤検校と名乗った人物で、都名は寿賀之一という。
『座下控』に永堀検校と記載される佐藤は弘化3年(1846)閏5月17日の権成。
当道廃止時の十老は松崎孝謙一(弘化2年正月元日権成)であったと思われ、佐藤も十老入り間近のランクの序列に位置していた。
明治4年(1871)の当道廃止時には64歳で、盲界の長老格であった。

 谷中霊園の墓は、70歳を機に建立した「寿陵」である。
墓石も大きくたいそう立派で、墓誌は成瀬大域の書による。

 経験と実績を積み、おそらくは名人とも称されるような評判を博していた佐藤自楽は、明治維新後の当道廃止の混乱期において鍼灸家としての成功者であっただろう。
しかし、その裏側には、さらに若い世代に属する多数の鍼按盲人の困窮があったことも忘れてはならない。、

  佐藤自楽の墓 正面
  谷中霊園の佐藤自楽の墓 正面

  佐藤自楽の墓 側面
  谷中霊園の佐藤自楽の墓 側面

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佐藤自楽墓誌
自楽姓佐藤氏文化五年生于越後新発田及廿ニ歳患眼喪明廿四歳来
江戸従長岡検校受杉山流鍼術既命為検校又為本所学校学頭終進総
録初有故以長堀為氏名寿賀之一明治四年 官命廃瞽者官職目更名
自楽復本姓父曰作兵衛母増田氏娶大八木氏生二男曰正興曰忠義自
楽今年七十建寿冢於東京谷中墓地中目誌概略其陰以示子孫
   明治十年九月   大域成瀬温書
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タグ : 当道検校長堀寿賀之一佐藤寿須賀之一佐藤自楽鍼灸

三年が間に

 塙保己一の若い頃の修業のさまについては、『温故堂塙先生伝』に次のようにある。

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はじめ大人雨富が家にいりし時、そのをしへにまかせ三絃を習けるに、今日ならひ得しものは、一夜が程にわすれて、明日は知らずなりけり。
すべて三年が間に、一曲をもまったくは覚え得ざるのみか、調子さへ合ざりければ、雨富もせんすべなくて、針治の術を旨と習はせけるに、医書読む方は人にすぐれて、二度よますれば、其次の度には一文字もたがへず読ほどなりけれど、述にかくれば人よりは遥に劣れり。
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 注目したいのは「三年が間に」である。

 三絃を習得しようとしてうまくいかず、針治の術に転向してやはりうまくいかず、そして師匠雨富検校に「博と賊とを除きて」好きなことに打ち込むことを許されて読書に励み、18歳で衆分に昇進している。
ここまでが3年なのである。

 この「三年が間に」の表現は、それよりも前に出てくる。
15歳から18歳までの三年間には、「三絃 + 針治の術 + 学問」をやっているのであるから、三絃を3年間やっているわけではないのは明白である。
三絃の修業をすぐにやめてしまったにもかかわらず、「三年たっても、ものにならなかった」というのはおかしい。

 「三年が間」は、塙保己一の場合を具体的に表しているのではないのだろう。
3年間で一定のめどをつけ、初心を卒業して次の半打掛に昇進するのが慣例だったようにも想像される。

タグ : 塙保己一当道三絃鍼治

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