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座中取締役の当道改革をめぐって 6

 座中の綱紀粛正は、座中取締役による改革の大きな柱の一つであった。
寛政4年(1792)閏2月、寺社奉行は座中における不祥事の古例を提出させている。

 それに対する座中取締役の回答は、まず職惣検校の不座として、寛永11年(1634)の奥田惣検校、享保14年(1729)の植山惣検校、享保7年(1722)の池川惣検校の3例を示している。

 座中取締役の時代、不正を犯した座頭の処分は座頭仕置にしたがって行われ、惣録へ引き渡して座内の処分に委ねるのであるが、惣録への引き渡しがなされなかった例も挙げられている。

 (1)元禄9年(1696)  津屋都座頭  
7月22日、放火。10月6日、江戸中引き廻し、浅草にて火罪。

 (2)元禄11年(1698)  直都座頭
借金の返済を催促され放火。11月25日、浅草にて獄門。

 (3)享保11年(1726)  了三(初心?)
旅籠屋の下女を殺害。5月17日、入牢。同21日、惣録の願い出により遠島。

 (4)天和3年(1683)  意津都座頭
5月29日、妻の密通相手を殺そうと企て、別人を殺害。閏5月3日、岩船検校方にて、簀巻きにして佃島の沖に流す。

 (5)宝暦4年(1754)  渡辺立伯
改名して出自を隠し、当道座に無断で鍼治導引を営業。11月19日、惣録の願い出により遠島。

 (1)、(2)、(4)は江戸惣録設置以前のできごとであるため、惣録が関与していないのは当然のことである。
(1)と(2)は公儀によって処罰が執行されたのであり、(4)は京都職屋敷が「簀巻き」という裁定を下して執行したものである。


 (3)と(5)は、惣録へ引き渡されたものの、罪状の重さを考慮して刑の執行を公儀へ委ねたと考えられる。
(3)の時代には後世の江戸惣録職はまだ設置されていないから、ここで言う惣録とは島浦総検校のことであろう。
(5)の渡辺立伯は、ほかの史料では渡辺龍伯と記されているもので、『当道大記録』によれば、翌5年3月に八丈島に流罪となり、同13年に病死したという。

 このようなことに寺社奉行が関心を持ったのは、不正に対する処分をだれが行うか、という問題への対処、換言すれば、座中の問題に対して幕府がどのように介入するかということを考えていたからにほかならない。


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タグ : 当道 検校 座中取締役 江戸惣録

京都盲唖院関係資料の重文指定

 京都府立盲学校及び聾学校の資料が重要文化財に指定されることになったという。
京都新聞の記事から、全文を引用させていただく。

    ----------------
「京都盲唖院」関係資料、重文に 国内初の公立支援学校

 明治時代初期に開校した国内初の公立特別支援学校「京都盲唖院」の関係資料が重要文化財に指定されることが、このほど決まった。近代日本の障害者教育で先駆的な役割を果たした教材や文書の数々。資料を保管する府立盲学校(京都市北区)、府立聾学校(右京区)の教師らは「ゼロから創意工夫で取り組んだ教育内容が評価された」と喜び、資料の活用を模索し始めている。
 盲唖院は1878(明治11)年に設立。すでに番組小で視覚・聴覚障害向けの教育に取り組んでいた古河太四郎が初代校長を務めた。子どもの障害に応じた教材開発や、海外の先進事例の導入により、基礎学力の習得と、手に職をつけるための職業訓練に力を入れた。
 指定されるのは、板に彫った文字に触れて形を学ぶ「木刻凸凹字」や、米国で考案された口や舌の動きで発音を学ぶ「視話法」の説明図など教材・教具類、開校や寄付に関する文書など多様な計3千点。
 背中や手のひらに指で文字を書いて教える盲唖院の授業の様子を描いた「盲生背書之図」や、日本画家として成功した卒業生の作品も含まれる。近代教育史上、学術価値が高いと評価された。
 盲唖院は、府立盲学校と府立聾学校の前身にあたる。両校の資料室には、特徴的な教材のほか、学校の歩みを伝えるパネルを展示。事前予約で見学可能で、研究者も利用しているという。
 「今回の指定は、子どもの励みや教師の努力の礎になる」と聾学校の酒井弘校長(62)は喜び、「重文を持つ学校に恥じない教育を進めたい」と気を引き締める。
 盲学校の中江祐校長(58)は「資料が伝える一人一人にあった教材開発は現在にも通じる。自分たちの教育活動に生かしたい」といい、活用法を探っていくという。

(京都新聞 2018年3月14日)
    ----------------

 教材や教育機器は日進月歩で新しくなっている。
当然、昔のものが現在もそのまま使用できるわけではない。
古いものを「時代遅れ」と片づけてしまわずに、保管しておくだけでもたいへんなことだとわかる。
この指定を機に、貴重な資料がさらに整理・活用されることを願う。


《参照・リンク》
京都新聞 2018年3月14日

京都府立盲学校 > 「京都盲唖院関係資料」の国の重要文化財指定答申を受けて

タグ : 京都盲学校 京都盲唖院 古河太四郎

座中取締役の当道改革をめぐって 5

 加藤康昭氏は『日本盲人社会史研究』で、幕府の打診に対する寛政4年(1792)閏2月4日の座中取締役からの回答について、次のように述べている。

 座は鍼治盲人支配を要求する一方、幕府の出した明眼遊芸者支配案に対しても、これを座運挽回の一策として食指を動かした。幕府が「針治ハ医に属し、音曲ハ検校に属」するとして、鍼治を分離して遊芸のみを支配せしめようとしたのに対して、座側は「明眼ニ而琴三味線ニ合候遊芸いたし候者は作業ニ付支配仕、盲人ニ而針治導引等を業ニ仕候者は其身分に付支配仕度」いという巧みな論理で、鍼治遊芸両者の支配にもなみなみならぬ関心をみせ、定信の要請に応じて遊芸者取締方、新作浄瑠璃改方などを答申した。
 (同書.341~342ページ)

 加藤氏は引用箇所の「作業ニ付」と「身分に付」に傍点を付して、当道座の言い分を「巧みな論理」であるとしている。
 明眼の「遊芸いたし候者」は音曲という仕事の共通性から、盲人で「針治導引等を業ニ仕候者」は盲人であるという障害の共通性から、いずれも検校の支配に置かれるべきものであるという論理である。

 続いて閏2月10日、座中取締役は「盲人は検校の身分に付き候儀に御座候えば筋合重く、遊芸いたし候ものは家業に寄り候事に御座候えば軽き方には之有るべきか」と回答し、鍼治導引の盲人と音曲の晴眼者とを比べると盲人が優先されるべきであるとしている。

 松平定信が主導した寛政の改革の一環としての当道座中の改革は、このことによって抜本的な改革には至らず、結果的に当道座は盲人団体としての性格を保ち続け得た。


《参考文献》
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社(1974).

《参照・リンク》
国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天

《関連記事》
座中取締役の当道改革をめぐって 2

タグ : 当道 座中取締役 検校

座中取締役の当道改革をめぐって 4

 座中取締役は、なぜ設置されたか。

 幕府側の公式的な言い方としては、寛政3年7月の藤植・塙両検校の取締役任命の申し渡し書にあるとおり、「近来座中之者共一同風儀みだりに相成り、針治音曲等の家業をわすれ利欲のみに耽り……」ということが、その理由である。

 それに対して、翌寛政4年2月に江戸の検校8人が連名で取締役に願書を提出したが、その冒頭に「近来座中不繁昌にて難儀至極仕り候」とある。
そして、江戸の検校たちは、預り・結解と称される京都在住の三、四人の検校が、実質的に職屋敷を牛耳っていることに問題があるのだと主張する。

 安永年間から座中取締役が設置された寛政3年までの検校任官数を数え上げてみると、次のようになる。

安永元年(1772)   0人
  2年(1773)  10人
  3年(1774)   9人
  4年(1775)   7人
  5年(1776)   3人
  6年(1777)  16人
  7年(1778)  10人
  8年(1779)   2人
  9年(1780)   3人
天明元年(1781)   4人
  2年(1782)   3人
  3年(1783)   2人
  4年(1784)   2人
  5年(1785)   1人
  6年(1786)   3人
  7年(1787)   4人
  8年(1788)   2人
寛政元年(1789)   2人
  2年(1790)   3人
  3年(1791)   2人

 安永7年に、名古屋検校、鳥山検校らの高利貸事件が発覚して、その翌年から検校任官数は激減した。
検校には定員はないから、官金を納めて任官する者が多ければ座は潤い、反対にその数が少なければ座の財政は逼迫する。
江戸の検校たちが言う「座中不繁昌」とは、この状況を指している。
「風儀」が乱れ、「家業をわすれ」て「利欲に耽」るといった、個人の人格や資質に関する問題ではないと言うのである。

 幕府側と座の内部との間には、見解の相違がある。
この見解の相違が後々まで尾を引き、座中の改革は幕府の当初の方針とはまったく違った方向へと進むことになるのである。


タグ : 当道 座中取締役 検校 塙保己一 藤植親矇一

座中取締役の当道改革をめぐって 3

 藤植、塙両検校が座中取締役に任じられたのは、寛政3年7月のことである。
藤植親矇一は安永6年(1777)正月元日の権成で検校任官後15年目、塙保己一は天明3年(1783)3月24日の権成で9年目にあたる。

 加藤康昭著『日本盲人社会史研究』に、「座の席次からいえば、時の栗原惣検校木曽一より数えて、惣録伊東検校は115番目、さらにこの惣録から藤植検校は28番目、塙検校は65番目の末席を占めている」(335ページ)とある。
その後の書籍などをみると、このあたりが引用されているものが散見される。
「65番目」「末席」という言葉がどうやら独り歩きしている感がある。

 これには注がついている。
「三代関」「表控」による。ただし栗原惣検校が高齢であるため、この間に死亡検校も相当数あるものと思われるが、いちおう不座検校のみを除外して権成の順に席次を計算した。(同書 349ページ)というものである。

 ほとんどの検校の歿年月日はわからないので、このように数えるほかはないのであるが、伊東惣録よりも権成が3年早い豊永検校(栗原惣検校から数えて107番目)がこの時点ですでに十老入りしているから、伊東惣録までの115人のうちの100人前後が死亡(あるいは引退)検校であることは確実である。

 115と65という数字を足すと、塙検校は栗原惣検校から数えて180番目になる。
しかし、約100人の死亡(または引退)検校を除外すると、塙検校の席次は80番目くらいである。
座中取締役任命の時点では、塙検校の下にすでに23人の検校が任官していた。
当然、伊東惣録から塙検校までの間の64人(65番目が塙検校)の中にも、塙検校よりもあとから検校になった23人の中にも、死亡(または引退)した検校がいるわけであるが、もちろんその数はわからない。
それをひとまずおくとすると、塙検校の席次は100人くらいの検校のうちの上から80番目くらいということになろうか。
「65番目の末席」といっても、下から数えたほうが早いという程度のことで、いちばん下ということではない。

《参考文献》
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社(1974).


タグ : 当道 検校 座中取締役 藤植親矇一 塙保己一

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