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座中取締役の当道改革をめぐって 9

 寛政4年(1792)6月27日、寺社奉行は江戸惣録の伊東検校と職十老惣代の豊永検校を呼び出す。
藤植・塙の両検校が座中取締役を仰せ付けられてから1年近くが経過しようとしていたが、京都職屋敷の対応は緩慢で、「兎角等閑の挨拶のみにて此の節迄一向壱人も罷り下り申さず候」というありさまであった。

 寺社奉行の追及に対して豊永検校は職屋敷の江戸下向を約束した。
結解の玉崎検校栄一と職事の滋野数馬が江戸に召喚され、8月6日に寺社奉行へ参内している。

 取締役は、二老・北岡、三老・亀田、四老・福島、五老・豊藤、六老・真田の5検校に小科仰せ付けという処分を申し渡すよう、職屋敷に要求した。
小科とは「当道式目」に規定された罰則で、検校に対しては三百疋(銭3貫文、金3分に相当)の罰金である。
また、職惣検校・栗原木曽一は自ら謹慎、その代わりに十老の者が交代で職屋敷に詰めるということとなった。
すでに老齢の栗原惣検校は適切な判断力も衰えていたかもしれないが、隠居はせず、結果的に寛政11年(1799)11月6日に死去するまで職惣検校を務めた。
藤植・塙両検校が座中取締役の任にあった8年間、京都の職惣検校は一貫して栗原きそ一がその地位を占め続けていたことになる。

 職屋敷の十老検校に対するこれらの処分は、旧態依然とした職屋敷に対して、幕府直属の座中取締役の権威を示す機会となったとは言える。

 9月、両検校が寺社奉行に出仕した際の口上に、「紀州熊本(肥後熊本の誤記)に罷り在り候 杉谷検校欠官の儀、私共へ掛合もこれ無く申し渡し」云々とある。
熊本の杉谷検校道一は、寛政4年2月に欠官となったようであるが、その処分を取締役に無断で決定したことを非難している。

 杉谷検校の罪状は、密通を犯したということであったが、前年の寛政3年(1791)5月に藩庁の呼び出し・御吟味を受け、12月に「官を剥ぎ、庶人に申し渡せ候上七十笞」の刑を受けている。

 元来、当道座は独自の裁判権をも有する自治的な組織であったが、少なくとも熊本藩の地域においては、座は裁判権を失い、刑事上の罰則については検校という高位の者であっても一般人と同等に扱われるようになっていた。
さらに注目すべきは、「官を剥ぎ」という記述である。
「七十笞」という刑事罰のみならず、官位の剥奪までもがすでに座の手を離れて藩の管轄に移行していることがわかる。
(「近世の座頭と当道座」,29~30ページ)

 京都職屋敷による杉谷検校の欠官の決定には、このような経緯があった。
職屋敷が幕府と座中取締役に断りなく杉谷検校を処分したのは、熊本藩の裁定を追認したに過ぎない。
地方の座頭集団が地域で生きていくためには、京都との関係よりも、地域の支配者 ―― 杉谷検校の件の例で言えば、熊本藩庁 ―― との関係のほうが重要だった。
京都を遠く離れた全国の各地方においては、職屋敷の権威はすでに低下していた。


《参照・リンク》
href="http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2562344 " target="_blank" title="国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天">国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
緒方晶子;「近世の座頭と当道座」

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タグ : 当道 検校 藤植親矇一 塙保己一 座中取締役

座中取締役の当道改革をめぐって 8

 三沢検校の貸付金証文をめぐる一件は、当道が抱える別の問題にも光を当てることになった。
それは、師匠・弟子間の相続の問題である。
三沢検校のところには大名家への多額の貸付金があったわけであるが、検校の遺産はこのような金銭的な財産だけではない。
師匠亡き後の弟子たちが、次にどの検校の弟子になるかという、いわば人的な財産の帰属をめぐる問題である。

 師匠である学問所検校が死亡または引退すると、弟子は別の検校の弟子になる。
弟子の官位昇進に関して京都職屋敷への申請の権限を持っているのは検校だけであるから、師匠がいなくなった弟子は、同じ流派に属する別の検校と同宿堅めをして、同宿の関係の弟子になる。
このような実例は非常に多く、藤植親矇一は師匠の植崎松の一の亡き後、同じ師堂派の三沢検校の同宿弟子となり、塙保己一は雨富須賀一の引退後に同じ妙観派の中浦検校みよ一の同宿弟子となっている。

 寛政4年(1792)12月、座中取締役は寺社奉行に対して「座中伺書」を作成提出する。
この伺書はしばらく放置されて日の目を見ず、その後、修正を施されて寛政8年(1796)5月になって一応の決着を見る。
8か条から成る「座中伺書」の第3条に、同宿に関連した規定が述べられている。

 藤植親矇一の師匠(坊主)の植崎松の一も、塙保己一の師匠(坊主)の雨富須賀一も、ともに検校であったが、師匠が検校ではないという場合もある。
検校ではない者の弟子が検校に任官した場合、学問所として自分の坊主を同宿としてもよいことというのが改定案の骨子である。

 「座中伺書」では具体的な実例を挙げて、不合理を改めたいとしている。
磐瀬検校(元慎一)の坊主は金子勾当であるが、金子の坊主である伊達検校(さんき一)はすでに死去していて、金子は三木検校(誰ノ一)の同宿弟子となっている。
さらに三木検校が死去したため、磐瀬検校は学問所となったが、磐瀬の師匠である金子は検校ではないので、自身は学問所となることはできず、別の師匠の同宿弟子となる必要がある。
それで金子は磐瀬の弟子を引き連れて、こんどは松下検校(豊一)の同宿弟子となった。
そうすると、磐瀬の弟子が昇進した時の配り余りは松下に配当され、磐瀬は配当を受けられないことになる。
不合理なことであるから、これを改めたい。
つまり、金子勾当の弟子である磐瀬検校が、自分の坊主である金子勾当を同宿としてもよいということにしたい、というのである。

 当道には同宿に関する詳細な規定があり、そのことが時に矛盾を生む可能性をはらんでいた。
それは同時にまた、弟子の帰属という人的な財産をめぐる問題がしばしばトラブルのもとになっていたという「現実」を映し出している。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 地

タグ : 当道 検校 座中取締役 藤植親矇一 三沢織一

座中取締役の当道改革をめぐって 7

 座中取締役が幕府の意向に沿って座の再構成の問題に着手していた最中の寛政4年(1792)4月16日、藤植検校親矇一によって一つの新しい事案が提起される。
前職惣検校の三沢検校織一の遺言状をめぐるトラブルの告発である。
それまでの話の流れからすれば、唐突と言ってもよい。

 三沢織一は藤植親矇一の同宿師匠である。
藤植の坊主の植崎松の一という人であるが、その後、三沢と同宿堅めをして三沢の弟子になったのである。

 寛政2年(1790)12月、老齢の三沢が遺言状を作成した時、弟子たちがそれを確認して押印した。
しかし、藤植はそれに納得しなかったので印を押さなかった。

 藤植の主張するところによれば、事の概要は次のとおりである。

 三沢検校のところには奥州二本松藩主丹羽加賀守への貸付金の証文があった。
貸付金は返済されずに年月が経過し、寛政2年のころには証文の債権者は江ヶ崎勾当に変わっていたが、以前三沢が大病を患った際に、証文は三沢方へ返すようにとの遺言があったのにいまだ返されていないとして、三沢の実子である安之丞とその母貞松院が出訴に及んだ。
それに対して藤植は、三沢の言は自分の死後のことをよろしく頼むとの趣旨であって、証文の返還を明言したものではないとして、それには同意せず、遺言状に印を押さなかった。
そこで、三沢の同宿弟子の土岐村検校梅一と安之丞らが共謀して遺言状を切り張りして偽造したのである。

 座中取締役である藤植親矇一によるこの追及は、不正の告発に門戸を開く姿勢を示し、不正に対して厳正に対処することによって、取締役の権威を高めるねらいがあったと考えられる。
この当時、さまざまなところで不正がはびこっていて、すでに小名木検校ら8名の検校の連名による願書が提出され、それとは別に棚橋検校からも京都職屋敷に対する告発がなされている。
このあと、さらに大坂の小野村検校からも同様の告発が出てくるのである。



《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 藤植塙両検校一件 天
国立国会図書館のデジタル化資料 向方御赦例書 39盲人非人之部

タグ : 当道 検校 座中取締役 藤植親矇一 三沢織一

座中取締役の当道改革をめぐって 6

 座中の綱紀粛正は、座中取締役による改革の大きな柱の一つであった。
寛政4年(1792)閏2月、寺社奉行は座中における不祥事の古例を提出させている。

 それに対する座中取締役の回答は、まず職惣検校の不座として、寛永11年(1634)の奥田惣検校、享保14年(1729)の植山惣検校、享保7年(1722)の池川惣検校の3例を示している。

 座中取締役の時代、不正を犯した座頭の処分は座頭仕置にしたがって行われ、惣録へ引き渡して座内の処分に委ねるのであるが、惣録への引き渡しがなされなかった例も挙げられている。

 (1)元禄9年(1696)  津屋都座頭  
7月22日、放火。10月6日、江戸中引き廻し、浅草にて火罪。

 (2)元禄11年(1698)  直都座頭
借金の返済を催促され放火。11月25日、浅草にて獄門。

 (3)享保11年(1726)  了三(初心?)
旅籠屋の下女を殺害。5月17日、入牢。同21日、惣録の願い出により遠島。

 (4)天和3年(1683)  意津都座頭
5月29日、妻の密通相手を殺そうと企て、別人を殺害。閏5月3日、岩船検校方にて、簀巻きにして佃島の沖に流す。

 (5)宝暦4年(1754)  渡辺立伯
改名して出自を隠し、当道座に無断で鍼治導引を営業。11月19日、惣録の願い出により遠島。

 (1)、(2)、(4)は江戸惣録設置以前のできごとであるため、惣録が関与していないのは当然のことである。
(1)と(2)は公儀によって処罰が執行されたのであり、(4)は京都職屋敷が「簀巻き」という裁定を下して執行したものである。


 (3)と(5)は、惣録へ引き渡されたものの、罪状の重さを考慮して刑の執行を公儀へ委ねたと考えられる。
(3)の時代には後世の江戸惣録職はまだ設置されていないから、ここで言う惣録とは島浦総検校のことであろう。
(5)の渡辺立伯は、ほかの史料では渡辺龍伯と記されているもので、『当道大記録』によれば、翌5年3月に八丈島に流罪となり、同13年に病死したという。

 このようなことに寺社奉行が関心を持ったのは、不正に対する処分をだれが行うか、という問題への対処、換言すれば、座中の問題に対して幕府がどのように介入するかということを考えていたからにほかならない。


タグ : 当道 検校 座中取締役 江戸惣録

京都盲唖院関係資料の重文指定

 京都府立盲学校及び聾学校の資料が重要文化財に指定されることになったという。
京都新聞の記事から、全文を引用させていただく。

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「京都盲唖院」関係資料、重文に 国内初の公立支援学校

 明治時代初期に開校した国内初の公立特別支援学校「京都盲唖院」の関係資料が重要文化財に指定されることが、このほど決まった。近代日本の障害者教育で先駆的な役割を果たした教材や文書の数々。資料を保管する府立盲学校(京都市北区)、府立聾学校(右京区)の教師らは「ゼロから創意工夫で取り組んだ教育内容が評価された」と喜び、資料の活用を模索し始めている。
 盲唖院は1878(明治11)年に設立。すでに番組小で視覚・聴覚障害向けの教育に取り組んでいた古河太四郎が初代校長を務めた。子どもの障害に応じた教材開発や、海外の先進事例の導入により、基礎学力の習得と、手に職をつけるための職業訓練に力を入れた。
 指定されるのは、板に彫った文字に触れて形を学ぶ「木刻凸凹字」や、米国で考案された口や舌の動きで発音を学ぶ「視話法」の説明図など教材・教具類、開校や寄付に関する文書など多様な計3千点。
 背中や手のひらに指で文字を書いて教える盲唖院の授業の様子を描いた「盲生背書之図」や、日本画家として成功した卒業生の作品も含まれる。近代教育史上、学術価値が高いと評価された。
 盲唖院は、府立盲学校と府立聾学校の前身にあたる。両校の資料室には、特徴的な教材のほか、学校の歩みを伝えるパネルを展示。事前予約で見学可能で、研究者も利用しているという。
 「今回の指定は、子どもの励みや教師の努力の礎になる」と聾学校の酒井弘校長(62)は喜び、「重文を持つ学校に恥じない教育を進めたい」と気を引き締める。
 盲学校の中江祐校長(58)は「資料が伝える一人一人にあった教材開発は現在にも通じる。自分たちの教育活動に生かしたい」といい、活用法を探っていくという。

(京都新聞 2018年3月14日)
    ----------------

 教材や教育機器は日進月歩で新しくなっている。
当然、昔のものが現在もそのまま使用できるわけではない。
古いものを「時代遅れ」と片づけてしまわずに、保管しておくだけでもたいへんなことだとわかる。
この指定を機に、貴重な資料がさらに整理・活用されることを願う。


《参照・リンク》
京都新聞 2018年3月14日

京都府立盲学校 > 「京都盲唖院関係資料」の国の重要文化財指定答申を受けて

タグ : 京都盲学校 京都盲唖院 古河太四郎

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