『上衆成立』に記載された検校

 奥村家所蔵文書の『上衆成立』については、「解説」に次のようにある。

    ----------------
 波多野流の二代目岸部検校の弟子あたりからの琵琶法師の師弟関係と記録を記したもの。藤村検校門人あたりまでの人が記されているので、波多野流(又は京都)の平曲関係者のリストとなるもの。
(『奥村家蔵 当道座・平家琵琶資料』,405ページ)
    ----------------

 しかし、これはあまり正確ではないようである。
結論からいえば、『上衆成立』は「波多野流(又は京都)の平曲関係者」のみを示したものではないらしい。

 『座下控』と『上衆成立』に記載された検校任官者を数えてみる。 
1年ごとに人数を示すと煩瑣になるので、概ね10年ごとに区切って以下に示す。
年代のあとの数字は、左が『座下控』、右が『上衆成立』に記載された検校任官数である。

 1805〜1810年   22   0
 1811〜1820年   58   0
 1821〜1830年  101   7 
 1831〜1840年   87  22
 1841〜1850年   66  30
 1851〜1860年   52  45
 1861〜1867年   75  74

 『座下控』は文化2年(1805)11月から始まっている。
そして、慶応3年(1867)9月が最後となる。
『座下控』に記される文化2年の任官者は浅本徳之一ただひとりであるが、同年のそれ以前の時期に4人が任官していることが『表控』によって知られる。
慶応3年には17人の検校任官者の名が記されるが、明治3年(1870)までの記録を残す『上衆成立』には、10月以後の任官者としてさらに3人の名が記される。
文化2年の4人と慶応3年の3人は、上記の人数からは除外した。

 『上衆成立』に記載された検校は年を追うごとに増え、幕末のころには『座下控』に記載されている検校をほぼ漏れなく網羅している。
このことから、『上衆成立』は1850年代後半の安政年間ごろにその基本的なスタイルができ上がったものとみられ、その後、明治3年まで順次追記されたと考えられる。

 『上衆成立』に記載された最初の検校は、文政4年(1821)の権成である生嶋朝重一(『座下控』では浅重一)と岸崎城菊であるが、生嶋は嘉永4年(1851)に、岸崎は安政3年(1856)に、それぞれ常不参となって座を引退している。
そのころ任官した検校で『上衆成立』に名を残しているのは『上衆成立』が書かれた時点で存命だった者に限られ、逆に幕末のころに任官した検校はほとんどすべて遺漏なく記載されている。
したがって『上衆成立』は、それが作成され始めた時 ―― 前述したように、おそらく安政年間ごろ ―― 以後の、全国の全流派の検校を記録しようとしたものであって、「波多野流」や「京都」の関係者だけをピックアップしたものではない。


 註:上に示した『座下控』による検校任官数は、『日本盲人社会史研究』370ページの「第5表 年度別検校任官数の推移」の人数とは一致しない。資料自体に不分明な点があることや、ひとたび当道を離脱した後に帰座した者がいること(『日本盲人社会史研究』では帰座者は数えられていないようである)などの理由による。


《参考文献》
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社(1974).
 渥美かをる・前田美稲子・生方貴重(編著);『奥村家蔵 当道座・平家琵琶資料』,大学堂書店(1984).

《関連記事》 
幕末の検校と二季の塔

タグ : 当道 検校 座下控 上衆成立 平曲 波多野流

江戸切絵図の中の検校宅

 江戸の町の詳細な地図である切絵図を眺めていると、検校の邸宅が散見される。
幕末ごろの状況の一端がわかって興味深い。

 「金鱗堂 尾張屋清七版」の切絵図によると、検校が最も多く住んでいたのは「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年刻 安政6年再版)の中の、現在の日本橋久松町から日本橋浜町あたりに相当する一帯である。



 まず、小笠原左衛門尉の屋敷のすぐ北側に「山沢検校」とある。
山沢検校は山登検校松和一の弟子で、山田検校の孫弟子にあたる。
都名(いちな)を宗和一といい、天保6年(1835)に検校となっている。

 その北の通りに面して「成川検校」の家がある。
さらに東側には「矢島検校」と「鏡島検校」が背中合わせに住んでいる。

 この界隈には、ほかにも面白そうな人々が住み、多士済々の顔ぶれが楽しめる。

 山沢検校の隣家は「土生玄昌」とある。
土生玄昌は、高名な眼科医でシーボルト事件に連座して失脚した土生玄碩(1762〜1848)の養子である。
玄碩は嘉永元年(1848)に歿しているから、切絵図の時代には玄昌の代になっていたわけである。

 小笠原左衛門尉の屋敷をはさんで南側には「杉田玄丹」がいる。
杉田玄白(1733〜1817)の義理の孫にあたる。

 その東側、「山伏井戸」と書かれた通りに面して「石坂宗貞」という文字が読めるが、おそらく石坂宗哲(1770〜1841)の類縁なのであろう。
この図の中のさらに東寄りに位置したところ、「船越左門」と書かれた屋敷の北側に、同族なのであろうか、似た名前で「石坂宗桂」というのもある。


 山伏井戸と交差する道を北上して小笠原左衛門尉の屋敷の裏側を通り抜けると「佐藤捨蔵」。
『言志四録』を著した高名な儒者・佐藤一斎(1772〜1859)がここに住んでいた。

 そのほかにも医者や学者と思われる名前が数多く並んでいる。


 また、久松町・浜町からは少し離れるが、和泉橋の南側、現在の岩本町のあたりに「多喜川検校」の屋敷がある。
明治4年(1871)、当道が廃止された時の歴代最後の江戸惣録である。

 これほどたくさんの検校が居住していたのは、この日本橋北地区をおいて他にない。
ここ以外には「礫川牛込小日向絵図」の金剛寺坂(現在の文京区春日2丁目)に「村橋検校」が住していたのが確認される程度である。


山沢検校 宗和一
 源照派
 天保6年4月21日権成

成川検校 師一
 源照派
 天保7年正月元日権成

村橋検校 昌秀一
 妙観派
 天保10年7月25日権成

多喜川検校 宝和一
 源照派
 弘化4年3月晦日権成

鏡島検校 城千
 妙門派
 嘉永5年2月21日権成

矢嶋検校 兵庫一
 妙観派
 嘉永7年10月8日権成


タグ : 当道 検校 切絵図

秋山博 資料展

平塚市金目公民館玄関の秋山博資料展の看板。

 神奈川県の平塚盲学校の創立者である秋山博(1863〜1918)の資料展が開催されているというので、平塚市立金目公民館(平塚市南金目966)に行ってみた。
秋山のゆかりの地、平塚盲学校の揺籃の地である平塚市金目地区は、市域の北西のはずれ、太平洋から続く関東平野が、もう少しで山裾にのみ込まれるようなところである。

資料展看板の秋山博の肖像。

 秋山博の略歴は、この催しを紹介している平塚市の公式サイトにあるので、とりあえずそれをそのまま引用、転記しておく。


≪秋山博の略歴≫
 文久3年(1863年)10月14日、大住郡矢崎村(現在の平塚市岡崎)に生まれる。明治9年(1876年)ころ、天然痘により失明。明治16年(1883年)、20歳で鍼医として南金目に開業する。明治22年(1889年)、鍼学の技術と資質の向上のため、同業者と「中郡鍼学講習会」(受講無料)を組織。明治42年(1909年)、「私立中郡盲人学校設立趣意書」を提出し、同年12月に学校設立が許可されたため、翌年4月9日に「私立中郡盲人学校」が開校。(校主を秋山博、校長は伊達時が務める。)大正7年(1918年)3月22日、逝去(享年54歳)。
 「私立中郡盲人学校」は、現在の神奈川県立平塚盲学校の前身となる学校です。

(平塚市公式サイト 記者発表資料 現在の県立平塚盲学校の創始者「秋山博 資料展」を開催)


 明治22年の「中郡鍼学講習会」は、「鍼術灸術営業差許方」への対応であり、明治42年に設立趣意書を提出して翌年開校した「私立中郡盲人学校」は、「鍼術灸術営業取締規則」と「按摩術営業取締規則」への対応ということになる。
ことに後者は、各地の盲学校の設立の契機となったものであり、明治の末ごろの時期には「私立中郡盲人学校」同様、全国に多くの盲学校が設立されて今日に至っている。

 したがって、この時期には秋山博と同じように学校設立を企てた視覚障害者が全国にたくさんいたはずなのであるが、その多くは時の流れとともに忘れ去られ、秋山のように地元でその偉業が伝承されて墓前祭まで行われている例は少ない。
秋山の鍼灸師としての技量や、同じ障害を持つ仲間のことを深く慮る高潔な人格によるものであろうか。

 資料展では平塚盲学校所蔵の各種資料のコピーが掲示されていた。
会場内を撮影することはできず、持ち帰れるパンフレット類などもなかったので、展示の内容は簡単なメモと記憶に頼るしかないのだが、

  盲人学校の設立趣意書
  寄附金の名簿
  校舎と寄宿舎の図面
  盲人学校調(名称、位置、学則、学校長、職員、生徒定員などを記したもの)
  歳入出の精算の記録

などがあった。

 歳入出の精算書によると、年間の予算は953円ほどである。
歳入では、寄附がそのうちの650円を占め、中郡と内務省からそれぞれ100円ずつの補助金が出ている。
歳出は、全体のほぼ半分にあたる453円余が職員の給料、借家借地料が85円余、そのほか、備品、消耗品、修繕費等である。
秋山は、大正3年(1914)に、神奈川県に対して県費補助願を出している。
数年ののちのことではあるが、展示されていた受領書から、大正8年には300円の補助が出ていることがわかる。
そして翌年には、さらに500円の補助を申請している。
当時の盲人学校の経営の実態の一端を知ることができる。


《参照・リンク》
現在の県立平塚盲学校の創始者「秋山博 資料展」を開催  < 平塚市公式サイト

《関連記事》
和協会訓盲学校の設立認可申請

タグ : 盲学校 平塚盲学校 秋山博 金目公民館

東日本大震災と安政江戸地震、蘆野屋(阿斯能夜)麻績一

 東日本大震災からちょうど1年になる。
犠牲となられた方々に改めて追悼の意を表し、被災地の一日も早い復興を願う。


 以前にも書いたが、安政の大地震で亡くなった蘆野屋(阿斯能夜)麻績一(1803〜1855)のことを思う。
塙保己一の孫弟子にあたり、保己一の学統を受け継いだ検校である。
学問に秀でていたと同時に、すぐれた鍼術家でもあった。

 安政2年10月2日の夜、直下型の地震が江戸を襲った。
前年に発生した東海地方の地震と区別するため、安政江戸地震とも呼ばれる。
この地震では、大名屋敷を含む多くの家屋が倒壊し、水戸藩の藤田東湖(1806〜1855)らも死亡した。
麻績一は、治療のために患者の家を訪問中だったという。

 「蘆の屋検校は塙検校よりこのかた瞽者の博識なり、惜むべし地震の夜、針術の為めに病家に赴て横死せり」(『武江年表』)

 
 デジタル化されて利用しやすくなった国会図書館の資料には、『表控』のあとの時代の検校任官記録である『座下控』もある。
文化2年(1805)から慶応3年(1867)にいたる60年余りの期間の記録である。

 『座下控』には、阿斯能夜麻績一の名前も載っている。

    座下控の阿斯能夜麻績一

 上段には

  妙観  江戸
  阿新能谷麻積一
  同十一月十七日権

とある。

 「妙観」は所属流派名、「江戸」は検校任官時の居住地。
在名は、『座下控』では「阿新能谷」と表記されている。
「麻積一」の「積」は、本来は糸へんであるべきだが、資料ではのぎへんで書かれているように見える。
3行目は検校任官の年月日である。
「同」というのは、直前に記載された検校と同じということで、天保8年(1837)を表す。
『座下控』を見ると、この年には11人が新たに検校となっている。

 下段には

  坊主 雨冨流謙一
  祖父 塙保己一

とある。

 師匠とその師匠の名が記され、本人と合わせて3代の師弟関係がわかるようになっている。
阿斯能夜麻績一の師匠が雨冨流謙一(龍謙一とも)、その師匠が塙保己一である。
3代続けてすぐれた学者が輩出した。

 これらの左側に、すでに歿したことを示す「永請暇」の文字が朱で書き加えられている。
同じ時期に任官した検校は、『座下控』ではほとんどみな永請暇なのであるが、震災を思うと、阿斯能夜麻績一に付された永請暇の文字が何やら特別なものに感じられる。


《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 - 座下控

《関連記事》
蘆野屋麻績一
大震災と盲学校
大震災と盲学校 2
大震災と盲学校 3

タグ : 地震 安政江戸地震 蘆野屋麻績一 塙保己一 雨冨流謙一 座下控 永請暇

『表控』の後半部

 『表控』の後半部は、宝暦の末ごろから文化2年(1805)に至る40年ほどの期間であるが、前半部と異なり、随時書き継がれたリアルタイムの(あるいはそれに近い)記録を原資料としていると考えられる。

 内容的にはさらに前後2段に区分できる。
後半部の前段は安永の末ごろまで、後段はそのあとから文化2年までとなる。

 明確に時期を画するというほどのことではないが、前段は坊主や祖父坊主の名が在名のみで記される者が多く、後段は在名・都名ともに記される者が多い。
概ね安永の中ごろから、在名と都名がともに記される例が過半を占めるようになる。

 前段と後段を区別するもうひとつの特徴は、前段にのみ「同宿」の情報が詳しいことである。

 「同宿」に関する記述の最初の例は、明和元年(1764)10月21日権成の高崎部一で、坊主・五十嶋勾当、祖父坊主・吉谷かん一のほか、「山口同宿」と書き添えられている。

 当道における師弟の関係は、弟子の任官においてきわめて重要な意味を持つ。
弟子の官位の昇進を京都の職屋敷に取り次ぐ権限を有するのは学問所たる検校に限られる。
師匠(坊主)が学問所ではない場合、弟子は昇進の取り次ぎをしてもらうことができないから、さらにその師匠へとさかのぼって、学問所検校に取り次いでもらわねばならない。
師匠がすでにない場合は、だれか別の学問所と同宿の関係を結ぶ。
取立の師弟関係を実の親子の関係にたとえるならば、同宿とはいわば養子縁組のようなものである。

 高崎部一の場合、自分の師匠は勾当であるから官位の取り次ぎができない。
取り次ぎの権限を持つのは、その師匠にあたる吉谷かん一であるが、吉谷はすでに元文4年(1739)に死亡している。
したがって、同じ妙観派の検校である山口検校の同宿弟子となったわけである。
高崎部一を同宿の弟子として受け入れた山口とは、元文4年に検校になった山口たを一であろう。
山口たを一は、この少しあとの明和4年(1767)に江戸惣録を務めている当時の有力検校のひとりである。

 明和4年正月元日権成の真田女是一は、坊主が嶋上ゑい一であるが、「雨谷同宿」とある。
自分の師匠が亡くなったため、雨谷検校の同宿弟子となったのである。
これによって、真田の取立師匠(坊主)である嶋上検校は、正確な歿年は不詳であるが、少なくとも明和4年以前に歿していたことがわかる。

 安永2年(1773)3月7日権成の小名木熊一は、浅山検校(高一)の同宿弟子となっている。
浅山の取立弟子であった浅山今一は、安永6年(1777)正月元日の権成の時には小名木熊一の同宿弟子となっている。
これによって、小名木の坊主である音永ひこ一は安永2年以前に歿していたことがわかり、浅山高一は安永2年の時点では健在で、その後、安永6年までの間に歿したことがわかる。

 このように考えると、同宿の情報は、検校の歿年の上限や下限を推定する上で有意義なものであるが、安永6年2月8日権成の小嶋しゆん一を最後に途絶えてしまう。
偶然ではあろうが、ちょうど『三代関』の末尾と同じ時期である。

 このことから、『表控』の原資料は後半部の中でも少なくとも2段に分かれていて、段階的に成立したと推定される。


《参考文献》
 加藤康昭;『日本盲人社会史研究』,未来社(1974).

《参照・リンク》
国立国会図書館のデジタル化資料 - 表控

タグ : 当道 表控 検校 権成 坊主 同宿 国会図書館

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