母手縫いの巾着 2

 2001年の9月から11月にかけて、塙保己一の没後180年を記念して「塙保己一展」が、埼玉県内の7か所の会場を巡回する形で開催された。

 9月8日には、児玉町(当時)の総合文化会館セルディで記念式典が行なわれたが、温故学会会長の斎藤政雄さんが『温故叢誌』にそのときのようすを記している。

 式典の初めに、地元の金屋小学校の児童がナレーションを担当した「塙保己一物語」(スライド)の上映があった。
「次の話は、その一場面である」 ―― として、斎藤さんが書いているのは、牛が淵での自殺未遂のくだり。

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 保己一は、父親からやっと許され“絹商人と共に東都にいたり”雨富須賀一検校に入門した。
 ここで保己一は、はりや按摩を習うが、生まれつき不器用で、技が上達せず、そうかといって師匠に“学問がしたい”と打ち明けることもできずに苦悩する。ある日、前途に絶望した保己一は、師匠の家を飛び出す。ふと気がつくと、“牛が淵”に来ていた。(ぼうぜんと立つ保己一の姿。会場に声なし。)
 “もう、この淵に飛び込んでしまおう”と身がまえた一瞬、保己一は思いとどまった。母手縫いの巾着のことが頭をよぎったのである。それは母が元気なころ、“これを母さんの形見と思って大切にしなさい”と言って渡されたもので、肌身はなさず、懐に持っていたのだ。まさしく、母が保己一を救ってくれたのである。
(「絶望を奇跡に転じた塙保己一 ― 没後一八〇年記念式典・特別企画展から ―」,『温故叢誌』第56号 44〜45ページ)
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 本庄市塙保己一記念館所蔵の「母手縫いの巾着」である。

 後年の保己一には、この巾着を取り出しては手で触れてみる日もあったことだろう。
そのたびに、母を思い、故郷を思い、初心を振り返って自分を鼓舞したに違いない。

 だとしたら ――。
この巾着は、手にとって触れられるために存在し続けてきたのである。
なんといとおしく、美しい存在理由であることか!

 この存在理由は、時代を超えて現代にまで受け継がれるべきではないだろうか。
巾着は、ガラスケースの奥に陳列されるのではなく、手にとって触れてみることができるものであるべきではないだろうか。

 そう思ってはみるものの、文化財である以上、さすがにそれは現実には難しい。

 レプリカでよい。
同じ材質で同じ大きさの巾着を製作して、触察できるようにしておく。
そうすれば、視覚障害者はもちろんのこと、晴眼の見学者にも、塙保己一と愛用の巾着が伝えたかった何かがきっと伝わるはずである。 


本庄市塙保己一記念館所蔵の“母手縫いの巾着”。

《参考文献》
斎藤政雄;「絶望を奇跡に転じた塙保己一 ― 没後一八〇年記念式典・特別企画展から ―」,『温故叢誌』第56号,温故学会(2002).

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タグ : 塙保己一 巾着 文化財 斎藤政雄

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 若いころの塙保己一は、自殺を試みたことがあったという。

 よく知られたこのエピソードは随所に紹介されているが、ここでは花井泰子さんの小説『眼聴耳視 塙保己一の生涯』から、以下に一部引用する。
雨富検校のもとに入門して間もないころで、まだ千弥と名乗っている。

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 千弥は、ふらふらと外へ出た。九段坂を下った辺りに牛が淵という深い淵があることを知っていた。
 草の生い繁った淵のほとりに座って千弥はじっと耳を澄ましていた。人の足音が消えるのを待っていた。
 ハリ・按摩を生業とする人たちが信仰する大黒講からも離れ、音曲の信仰、弁天様からも離れていた千弥である。信ずるものを見出せなくなっていた。水をたたえた淵が千弥を呼ぶ。
 千弥は草をかきわけ淵の辺りに立った。
 風が吹いてきた。まわりの草が鳴り、松の枝がひそやかな音を立てた。
「辰之助、辰之助……」
 風の音が千弥を呼んだ。
「どうしたの? 辰之助、そんなところで何をしているの」
「あっ、おっ母さん!」
 千弥の胸を、きらめくような思いが走った。母の声が聞こえた。ひとしきり風が水の面を小さく波だたせる音が聞こえた。
「あっ、おっ母さん……」
 千弥は深みに向かって進みかけた。母が水の中で呼んでいるように思われた。
「お父っつぁん、せっかく江戸へ出していただいたのに何一つ習い覚えられません。どうぞお許しください。死んでお詫びいたします」
 胸で合わせた手に巾着が当たった。
「おっ母さんっ、おっ母さんっ」
 見えない目の奥底に見えていた、母の姿が、すっと消えた。そして千弥は我に帰った。
「ああっ、何という浅はかな了見を起こしたものか。江戸に出てくるとき、おっ母さんのお墓の前で学問をしますと誓ったではなかったか。まだ一歩も学問に足を向けていないのに、何の努力もしないで嘆いてばかりいるなんて、何と愚かな自分だったろう。おっ母さん、許してください」
 千弥は、胸の巾着をぎゅっと握りしめた。
(『眼聴耳視 塙保己一の生涯』94〜95ページ)
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牛が淵。桜のころ。

 触覚というもののインパクトの強さを物語る話である。

 この巾着は、後に総検校塙保己一となる辰之助少年が江戸に出る時に路銀23文を入れていた「母手縫いの巾着」として、本庄市の塙保己一記念館にいまも保存展示されている。

 保己一が、この巾着をいつまで使っていたかはわからない。
日常生活の中での実用品としては、ずっと使われ続けたというわけでもなかろう。
ただ確実に言えることは、この巾着を保己一が生涯手放さなかったということである。
母親が縫ってくれた日から数えると60年余に及ぶ長い歳月である。

 ひるがえって、モノが豊かになった現代のわれわれの生活を考えてみる。
一人の人間が一つの品を、数十年にわたって持ち続ける、使い続けるということがどれだけあるだろうか。
そんなことに思いをめぐらせると、この巾着が保己一にとってどれほど大切なものであったかが知れるのである。


《参考文献》
花井泰子;『眼聴耳視 塙保己一の生涯』,柏プラーノ/紀伊國屋書店(1996).

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和学講談所跡の説明板

 目の不自由な人が文化財などを見学する際、せめて直接手で触れてみることができたらよいだろうと思う。
また、点字や音声などによる説明があればよいだろうとも思う。
博物館などの文化財公開施設の中には、そのような工夫がなされているところもないではない。
見える人が実際に目で見て理解するのと比べたら、まったく同じように、というわけにはいかないであろうけれども。

和学講談所跡の説明板と標柱

 東京都千代田区三番町の和学講談所跡には、東京都教育委員会が設置した説明板と千代田区教育委員会が設置した標柱がある。

 説明板には以下の記述がある。

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 東京都指定旧跡 塙検校和学講談所跡

  所在 千代田区三番町24
  指定 大正7年4月
 
 塙検校(1746〜1821)は江戸時代の国学者。幼名寅之助のち保己一と改名。武蔵国児玉郡保木野村に生まれ、幼くして失明したが江戸に出て賀茂真淵らに国学を学ぶ。和漢の学に通暁し、天明3年(1783)検校、文政4年(1821)に総検校となる。
 この間、寛政5年(1793)江戸麹町に和学講談所を設立し、講義・会読のほか京都・名古屋などにも史料を採訪して「群書類従」「武家名目抄稿」「史料」などの編纂事業を行なった。これらの編纂は明治以後の国史・国文学研究に大きな影響を及ぼした。

  昭和52年3月31日 建設
              東京都教育委員会
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 言うまでもないことだが、和学講談所は現存していない。
ここは、和学講談所の「跡」なのである。
明治以後、この土地は分割売却されてしまったので、見える人が実際に目で見たり、見えない人が手で触れて確かめたりすべき遺構は、何一つない。
だから、東京都教育委員会の説明板に点字が併記されてさえいれば、点字の読める人にとっては見える人との情報格差はほとんどないことになるはずだ。

 こういう文化財にこそ、点字の説明板があればよいと思うのである。
大文献集『群書類従』を世に出した盲目の国学者ゆかりの場所は、点字の説明板を設置して視覚障害者の見学の便を図り、情報バリアフリー推進の象徴とするにまさにふさわしいだろう。


タグ : 塙保己一 和学講談所 文化財 点字

塙保己一と漢字

 多くの伝説的なエピソードに包まれた塙保己一であるが、こんな話も伝わっている。

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  判断力がすぐれていた人

 あるとき、■町(■はサンズイにヨシ=吉)という町の名を書いた手紙を持って、たずねてまわる者がありました。そここことたずねましたが、そんな字はないこととて、さがしあてることができません。
 そこで、保己一ならきっと読めるだろうというので、たずねてきました。
 そのとき門弟がたくさんいましたが、かれこれ言うだけで、読める者がだれもいません。保己一も首をかしげて考えていましたが、ハタとヒザをたたいて、「それは、油町だろう。」と言いました。弟子たちはふしぎがって、そのわけをたずねますと、「それは、この手紙を書くとき、油という字を忘れてしまって、そばにいた者に聞いたのだろう。すると、サンズイにヨシと教えられたものだから、由と書けばよいのに、同じ音の吉という字を書いてしまったのにちがいない。」と説明しました。
 それを聞いた人びとは、保己一の判断力のすぐれているのに、みなあっとおどろきました。保己一の言ったとおり、そのたずねる家は油町にあったということです。
(『盲目の大学者 塙保己一』22〜23ページ)

※「サンズイにヨシ」という漢字が表示できないため、■で代用した。
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 サンズイに由 ――。
「油」という形の漢字が「アブラ」であるという知識を、塙保己一は持っていた。
なぜ、保己一は字の形を知っていたのか。
点字はもちろんのこと、凸字の文字教材もない、視覚障害者が文字を学習する手段は皆無の時代である。
幼少時から手のひらの上に指で字を書いてもらったりした経験があったのだろう。
長じてからは、墓石や道標に刻まれた文字を指でなぞってみることなどは、好んでやってみたに違いない。

 手紙に書かれた「サンズイに吉」という文字を眺め続けていても、「サンズイに由」の字はなかなか思い浮かぶものではない。

 漢字には読み方がある。
読み方は意味であり、オトである。
漢字というのは常にオトを伴っているものなのだという、当たり前のような事実に改めて気づかされる。

 それが、ひとたび文字として紙の上に書かれてしまうと、「サンズイに吉」という視覚的な情報は邪魔なものとして働く。
正解に到達するには、「サンズイにヨシ」「サンズイにヨシ」……と、胸のうちで繰り返しつぶやき続けることである。
塙保己一に言わせれば、これもまた「目あきとは不自由なもの」ということになるのであろうか。


《参考文献》
『盲目の大学者 塙保己一』,社団法人温故学会(平成12年・塙保己一生誕250年記念).

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『塙保己一事歴研究』

温故学会の建物。

 5月5日、東京都渋谷区の塙保己一史料館(温故学会)で恒例の塙保己一検校の記念大会が行われた。
毎年2回催されるが、そのうちの1回は塙保己一が生まれたとされる5月5日に開かれている。
今年で生誕262年になる。

温故学会入口の塙保己一像。

 今回も出席させていただいたが、その折、斎藤政雄理事長の『塙保己一事歴研究』という本が刊行されたことを知った。
斎藤理事長の論文などから主要なものを集成した著作集である。
明治42年(1909)に創立された温故学会の100周年記念出版事業ということである。

 数日後、その『塙保己一事歴研究』を温故学会からお送りいただいた。
たいへん貴重なものを頂戴し、恐縮している。

 『塙保己一事歴研究』に副題として添えられた「保己一に捧げた半世紀」の句は、掛け値なしに斎藤理事長の人生を表すにふさわしい。

『塙保己一事歴研究』の表紙。


 同書に収められた文章を、「もくじ」から紹介する。

  塙保己一と温故堂 …… 『温故叢誌』第19号(昭和37年)
  塙先生と大田南畝 …… 『温故叢誌』第20号(昭和39年)
  菅公と塙検校 …… 『温故叢誌』第21号(昭和40年)
  塙保己一の蔵書 …… 『温故叢誌』第23号(昭和42年)
  『群書類従』版木と摺立て出版事業 …… 『塙保己一記念論文集』(昭和46年)
  塙保己一の史料探訪 ―文政二年の「上京日々記」から― …… 『温故叢誌』第29号(昭和50年)
  和学講談所の学則 …… 『温故叢誌』第35号(昭和56年)
  『群書類従』の奥書 …… 『温故叢誌』第38号(昭和59年)
  『和学講談所御用留』の研究 …… 『温故叢誌』第46号(平成4年)
  慶応四年和学講談所御用留(閉鎖時) …… 『温故叢誌』第58号(平成16年)

  ◇講演・対談◇
  保己一の版木を守って(NHKラジオ・人生読本) …… 『温故叢誌』第50号(平成8年)
  賀茂真淵と塙保己一(賀茂真淵記念館・記念講演) …… 『温故叢誌』第51号(平成9年)
  「この人と」(毎日新聞・対談) …… 『温故叢誌』第52号(平成10年)
  今に生きる塙保己一(さいたま文学館・講演) …… 『温故叢誌』第53号(平成11年)
  般若心経を生きた塙保己一(NHKラジオ深夜便・こころの時代) …… 『温故叢誌』第56号(平成14年)


《参考文献》
斎藤政雄(編著);『塙保己一事歴研究 ― 保己一に捧げた半世紀 ―』,温故学会(2008).

タグ : 塙保己一 温故学会 斎藤政雄

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