宮城道雄記念館 検校の間

 記念館裏手の検校の間は、以前訪れたときとなんら変わっていなかった。

宮城道雄記念館の検校の間。

 作曲や随筆執筆などの際に使用した茶室風の書斎。
独立した建物で、「離れ」である。
外からのぞき込むと、部屋は6畳で、奥に床の間がある。
直接見えるのはそれだけだが、6畳間の北側の襖の奥に、もう一つ2畳の小さな部屋がある。
畳の上には筝やレコードプレーヤーが置かれ、床の間の掛け軸の手前には置時計と白い観音像が並んでいた。
いかにも宮城道雄の好みらしい観音像である。

石の達磨大師。

 検校の間の少し先には石の達磨大師。
宮城自身のことばが記された説明板がある。
昭和30年(1955)2月のNHKラジオで放送されたものだという。

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 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨大師を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石やさんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかでこぼこした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。
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 その先には、防音が施された鉄筋コンクリート造りの録音室。
1955年に着工されたが、翌年の竣工の直前に不慮の死をとげた宮城は、この録音室を実際に使うことはなかったそうである。

 さらに進むと、別館。
ここには宮城喜代子記念室がある。
宮城道雄の姪にあたる宮城喜代子(1905〜1991)は、門弟として道雄の音楽活動を支え、その没後は後継者として宮城会を率いた。
部屋には喜代子の大きな写真が掲げられ、愛用の筝が展示されている。

宮城喜代子記念室から見える庭。

 記念室から外に目を転ずると、手入れの行き届いた庭が見える。
色濃い緑の木々の中に、セミの大合唱がいつまでも続いていた。


《参照・リンク》
宮城道雄記念館

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宮城道雄記念館 展示室

 この夏、久しぶりに宮城道雄記念館に行ってみた。
以前は飯田橋から神楽坂を上るか、逆に神楽坂駅から坂道を下るかだったが、大江戸線ができてから最寄り駅は牛込神楽坂駅に変わった。

 東京都新宿区中町35番地。
宮城道雄(1894〜1956)が晩年に居を構えた場所に建っている。
1978年の開館で、音楽家の個人の記念館としては日本で最初のものだということである。

 視覚障害者も数多く来館することが予想され、館内にはそれなりの配慮もある。
第1展示室には3か所の音声による案内装置があり、そのほか、宮城道雄の手形など直接手で触れてみることのできるものもある。
現在の感覚からすれば、なんだこの程度か、ということかもしれないが、開館当時は画期的なことだったのだろう。
それよりも、第2展示室として音楽鑑賞を楽しむスペースを設けたことに、より特徴的な大きな意義があったのかもしれない。

 第1展示室は、いくぶんか模様替えをしているようで、展示品の配置も少し変わっていた。
入口すぐ左側には、宮城道雄の胸像が出迎えてくれる。
朝倉文夫の作、宮城の七回忌の年に制作されたものだという。

 左回りに進む。
最初は「誕生からデビューまで」。
家系と生い立ちに始まり、25歳で第1回の作品発表会を開催するまで。

 次のコーナーは「作曲」。
点字の楽譜や図書がある。
続いて「教授」。
宮城は東京音楽学校などで教えていたが、それに関連した資料。
ここで展示室のちょうど半分。

 次に進むと「レコード・放送」。
宮城道雄が楽しんだ趣味の世界である。
それから「開発楽器・参考楽器」。
宮城が考案、改良した楽器の数々が展示されている。
筝だけでなく、さまざまな楽器に関心を持っていたことがよくわかる。

 最後は「遺愛の品々」。
音楽とは関係がないが、宮城道雄が日常生活で愛用していたもの。
ひょうたん、観音像、根付など、手で触れて楽しめるものが多い。
所持していた身体障害者手帳も展示されていた。
「両眼角膜葡萄腫による両眼失明」と記され、職業の欄には「琴曲教師」とあった。
また、実際に使った点字器が二つ。
懐中定規である。
小さくて古いほうは、17マスの2行書き。
もう一つは、28マスの6行書きである。
八重崎検校の杖と伝えられる検校杖もある。
象嵌が施された立派な両撞木杖である。

 第1展示室の中央には、愛筝「越天楽」と八十絃筝が、以前と変わらぬ雄姿を見せていた。


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宮城道雄の「さてさて」

 かの筝曲家宮城道雄(1894〜1956)は、随筆も数多く書いている。
次に紹介するのは、1937年に刊行された『垣隣り』という随筆集に収められたもので、現在は岩波文庫で読むことができる。 

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 それで、私は別に自分が光のない暗い世界に住んでいる反感というわけではないが、何か故障のために停電したりして、人が騒ぐのを聞くと、非常に面白い気がする。また、ある時は、自分の前の弟子に箏の稽古をしていると、弟子が急に弾けなくなったりする。そんな時に、私は何も知らずに弾いていると、傍に待っている弟子などが、くすくす笑っている。それは突然灯が消えて、狼狽しているのである。後になって私はそのことを知って、「さてさて」とやりたい気持になるが、しかし、気どるわけにはゆかない。
(「闇」――『新編春の海 宮城道雄随筆集』103ページ)
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 「さてさて」と、ちょっと気どってみたい気持ちになっている宮城道雄。
この「さてさて」の本来の主役は、言うまでもなく塙保己一である。
1904(明治37)年の教科書の国定化に伴って刊行された『尋常小学国語読本』には、保己一の逸話を示す次のような文章が載せられていた ――。

 或夜弟子をあつめて、書物を教へし時、風にはかに吹きて、ともし火きえたり。
 保己一はそれとも知らず、話をつゞけたれば、弟子どもは、「先生、少しお待ち下さいませ。今風であかりがきえました。」と言ひしに、保己一は笑ひて、「さてさて、目あきといふものは不自由なものだ」と言ひたりとぞ。

 ―― 塙保己一の「さてさて」は、これによって広く知られることとなった。

 宮城道雄の同じ『垣隣り』には、こんな文章がある。

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私は七つぐらいの時には、まだ少し目が見えていたのである。私は今だに覚えているが、学校に行きたくて堪らなかった。毎年市役所から書附が来ると、自分でも、もう今年は目がよくなって学校に行くことが出来るだろうと思っていたし、親たちもそう思って楽しみにしていた。それに拘らず入学出来ないので、来年はよくなって行けると思っているが、その時になると、翌年に廻されてしまうのである。その次の年にはよいだろうと思っていると、それも駄目になり、毎年四月が来るたびに、子供心に楽しんでいたのに、最後になって目が段々見えなくなり、いよいよ入学することが出来なくなってしまったのである。
(「及落会議」――『新編春の海 宮城道雄随筆集』164ページ)
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 宮城道雄は視覚障害のために小学校に入学する年齢に達しても就学猶予となっていた。
入学の通知を毎年待ち望みながらかなわず、9歳の時に箏の修業に入る。
「さてさて」の話が『尋常小学国語読本』に掲載されたのはそれより後のことになるから、宮城道雄自身が教科書で直接これを読んだというわけではない。
後年、どこかで聞き知ったのであろう。

 停電のたびに「さてさて」の逸話を思い出しながら、塙保己一に親近感を覚え、愉快な気分に浸っている宮城道雄の姿が想像される。


《参考文献》
千葉潤之介(編);『新編春の海 宮城道雄随筆集』,岩波文庫(2002).

タグ : 宮城道雄 塙保己一 目あき 不自由

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