埼玉県川越市の喜多院に五百羅漢像がある。
天明の大飢饉を契機に、川越近郊の田島村(現在の川越市北田島)の志誠という人物の発願により建立されたものである。
538体ほどの羅漢像が現存するが、文政年間に至るまでの半世紀近くの期間を要して完成したといわれる。


この五百羅漢像の中に、「あんま師弟像」と仮に名づけられた三体の石像がある。
堺正一さんは、この三体の羅漢像に「世界に例がない日本の視覚障害者の伝統」を見る。
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そんな羅漢像の中に、あんまをする若い盲人とその客、そして、その施術を口うるさく指導している師匠と思われる微笑ましい三体の像があります。
この三体の像から当時の盲人の互助組織であり教育機関でもあった「当道座」と呼ばれた盲人一座の様子をうかがうことができます。
日本の盲人の輝かしい七〇〇年にも及ぶ歩みは、この座を中心に展開してきました。この当道座は同じ盲目という身体的障害を負った仲間が団結し、互いに助け合い、生活を守ってきたのです。
ここで「輝かしい」といった理由は、それだけではありません。一座の師匠たちが、自分と同じ障害の若者を独り立ちさせるために、「教育」という大切な責任をも果たしてきたことに、何よりも注目していただきたいのです。これこそ世界に例がない日本の視覚障害者の伝統です。
鎌倉時代になると『平家物語』を琵琶の音にのせて語る盲目の琵琶法師が登場します。当時の琵琶法師の様子がうかがえる図が今日多く伝えられています。そこには琵琶法師一人だけではなく、必ず若い盲目の弟子を連れている姿が描かれているのです。
既にその頃から、この盲人一座では、自分さえ生きていければそれでよい、とは考えませんでした。盲児を精神的にも経済的にも自立できる一人前の人間に育てあげることは、成人である自分たちの当然の責任であると考えたのです。
あの五百羅漢に見られる「あんま師弟像」は、この一座の人たちの思いを現在に伝えてくれます。
(『今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ』170〜171ページ)
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当道座は、明治4年に解体される。
しかし、その後の近代学校制度の中に生まれた盲学校においても、教員として中心的な役割を果たしたのは視覚障害者自身であった。
愛媛県県立学校再編整備計画(案) が示した松山盲学校の移転統合に対して寄せられたパブリックコメントの中の、
○ 理療科教員は今後定年退職するものが多く、その補充をしなければならない。
○ 卒業生は運動会や文化祭で活動できなくなる。
○ 治療室が移動すると患者がいなくなる。
○ 馬木町に移転後はこれまで緊密な連携がとれていた視聴覚福祉センターとの連携がとりにくくなる。
等々の意見。
これらは、一般県民からのものではなく、盲学校の内実を知る視覚障害者からの意見であるように想像される。
その多くはこの学校の卒業生なのであろう。
これらの意見には、再編整備計画(案) に対する、何かもどかしい違和感のような感情が一貫して横たわっている。
それは、県の再編整備計画が視覚障害者の「師弟相承」の伝統にそぐわないという違和感である。《参考文献》
堺正一;『今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ』,埼玉新聞社(2003).
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