あんま師弟像

 埼玉県川越市の喜多院に五百羅漢像がある。
天明の大飢饉を契機に、川越近郊の田島村(現在の川越市北田島)の志誠という人物の発願により建立されたものである。
538体ほどの羅漢像が現存するが、文政年間に至るまでの半世紀近くの期間を要して完成したといわれる。

喜多院の本堂、慈恵堂。

        あんま師弟像とよばれる三体の羅漢像。

 この五百羅漢像の中に、「あんま師弟像」と仮に名づけられた三体の石像がある。
堺正一さんは、この三体の羅漢像に「世界に例がない日本の視覚障害者の伝統」を見る。

    ----------------
 そんな羅漢像の中に、あんまをする若い盲人とその客、そして、その施術を口うるさく指導している師匠と思われる微笑ましい三体の像があります。
 この三体の像から当時の盲人の互助組織であり教育機関でもあった「当道座」と呼ばれた盲人一座の様子をうかがうことができます。
 日本の盲人の輝かしい七〇〇年にも及ぶ歩みは、この座を中心に展開してきました。この当道座は同じ盲目という身体的障害を負った仲間が団結し、互いに助け合い、生活を守ってきたのです。
 ここで「輝かしい」といった理由は、それだけではありません。一座の師匠たちが、自分と同じ障害の若者を独り立ちさせるために、「教育」という大切な責任をも果たしてきたことに、何よりも注目していただきたいのです。これこそ世界に例がない日本の視覚障害者の伝統です。
 鎌倉時代になると『平家物語』を琵琶の音にのせて語る盲目の琵琶法師が登場します。当時の琵琶法師の様子がうかがえる図が今日多く伝えられています。そこには琵琶法師一人だけではなく、必ず若い盲目の弟子を連れている姿が描かれているのです。
 既にその頃から、この盲人一座では、自分さえ生きていければそれでよい、とは考えませんでした。盲児を精神的にも経済的にも自立できる一人前の人間に育てあげることは、成人である自分たちの当然の責任であると考えたのです。
 あの五百羅漢に見られる「あんま師弟像」は、この一座の人たちの思いを現在に伝えてくれます。
(『今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ』170〜171ページ)
    ----------------

 当道座は、明治4年に解体される。
しかし、その後の近代学校制度の中に生まれた盲学校においても、教員として中心的な役割を果たしたのは視覚障害者自身であった。


 愛媛県県立学校再編整備計画(案) が示した松山盲学校の移転統合に対して寄せられたパブリックコメントの中の、
 ○ 理療科教員は今後定年退職するものが多く、その補充をしなければならない。
 ○ 卒業生は運動会や文化祭で活動できなくなる。
 ○ 治療室が移動すると患者がいなくなる。
 ○ 馬木町に移転後はこれまで緊密な連携がとれていた視聴覚福祉センターとの連携がとりにくくなる。
等々の意見。
これらは、一般県民からのものではなく、盲学校の内実を知る視覚障害者からの意見であるように想像される。
その多くはこの学校の卒業生なのであろう。

 これらの意見には、再編整備計画(案) に対する、何かもどかしい違和感のような感情が一貫して横たわっている。
それは、県の再編整備計画が視覚障害者の「師弟相承」の伝統にそぐわないという違和感である。


《参考文献》
堺正一;『今に生きる塙保己一 盲目の大学者に学ぶ』,埼玉新聞社(2003).

《関連記事》
盲学校の統廃合問題 愛媛(3)

タグ : 盲学校 松山盲学校 あんま 当道座 喜多院 五百羅漢

盲学校の統廃合問題 愛媛(3)

 盲学校の場所が変わってしまうということは、当事者にとってみれば大問題である。

 「移転」の問題について、パブリックコメントとそれに対する委員会の考え方。

【意見等】
 視覚障害者が町の中心地からより遠く離れた郊外へ通学しなければならなく、視覚障害者の生徒・教員の通学・通勤についてはどのような配慮がなされるのか。
 移転すると一人で行けない。現在地は交通アクセスがよく、視覚障害者の歩行に適した設備が整備され視覚障害者が一人で安全に歩行できる環境である。移転予定先は交通アクセスが悪く、交通事故も多発しており、視覚障害者にとっては安全な場所とは言えない。
 松山聾学校は、市内の中心部からかなり離れており仕事をしながら何とか調整をして送迎をしている保護者にとっては、遠くなる人が多く新たな負担が増える。
 理療科教員は今後定年退職するものが多く、その補充をしなければならないが、四国の盲学校に赴任を希望するものが少ないうえに、盲学校が環境の悪い場所に移転した場合、さらに難しくなる。
【考え方】
 松山聾学校はJRの駅やバス停も近く、周辺の道路等も急速に整備されてきておりますが、現時点では環境整備が十分ではない点もありますので、スクールバスによる通学手段や安全の確保への配慮は必要であると考えております。また、移転統合後は、周辺の通学環境の整備向上をすみやかに図っていくことは当然であると考えております。

【意見等】
 盲学校は現在の生徒たちだけのものではなく、卒業生も今後の入学生も利用する。
 卒業生は運動会や文化祭で活動できなくなる。
【考え方】
 現在及びこれから入学する児童生徒のことを第一に考えるべきと思っております。卒業生には、移転当初は不便をおかけするかもしれませんが、慣れれば、これまでと同様に、利用していただけるものと考えております。

【意見等】
 治療室が移動すると患者がいなくなる。職業過程
(原文ママ)である専攻科の教育の充実をはかる必要があり、鍼灸マッサージの臨床実習の機会を確保するためにも、交通アクセスの良い場所での教育が不可欠である。
【考え方】
 周辺は新しい住宅地であり、道路も良くなり、今後も人口増加が見込まれるため、患者の確保に心配はないのではないかと考えております。

【意見等】
 馬木町に移転後はこれまで緊密な連携がとれていた視聴覚福祉センターとの連携がとりにくくなる。久万ノ台校舎に松山聾学校が統合されることにより、聴覚障害の部門においても視聴覚福祉センターとの連携が可能になり、メリットは大きい。
【考え方】
 学校敷地の広さや校舎の状況など様々な条件を考慮したうえで、現在の案にしたものであります。馬木町においても、視聴覚福祉センターとの連携が必要な場合は対応可能と考えております。


 盲学校が立地している場所(久万ノ台)は松山市の中心部に近く、聾学校(馬木町)は中心部から離れている。
交通の便のよくない場所に移転すれば、通学しにくくなるという問題が生じる。

 しかし、問題はそれだけではない。
これらの意見に現れているのは、盲学校は在籍中の児童生徒だけのものではない、という明快な主張である。
卒業生にとっても、治療室の患者にとっても、盲学校は大切な社会資源なのである。


 「盲学校を現在地に存続させる会」は2007年9月に、移転に反対する5万8697人分の署名を県議会に提出し、さらにその後、全国的な署名活動を展開して、2008年4月21日、7万3916人分の署名簿と要望書を県教委に提出した。
6月11日、愛媛県教委は、当初の方針は変えないものの、現段階では関係者の理解が得られないことを理由として、2009〜13年度の再編整備計画案には盛り込まず、移転統合の時期について先送りすることを決定した。


《参照・リンク》
愛媛県県立学校再編整備計画(案)

《関連記事》
盲学校の統廃合問題 愛媛(2)
あんま師弟像

タグ : 盲学校 松山盲学校 盲学校を現在地に存続させる会

盲学校の統廃合問題 愛媛(2)

 2007年9月20日、「盲学校を現在地に存続させる会」(楠本光男代表)から松山盲学校の移転統合に反対する請願書が愛媛県議会に提出された。
請願は10月5日、県議会において全会一致で採択された。
その結果、「計画案の再検討は避けられない情勢となった」(読売新聞 2007年10月9日)と思われたが、愛媛県県立学校再編整備計画検討委員会は11月20日にパブリックコメントの結果を公表して、委員会としての考え方を示した。
そこには、パブリックコメントで寄せられた数々の懸念を、具体的な根拠をほとんど示さないまま打ち消して、8月の再編整備計画(案)を遂行しようとする機械的な言葉が並んでいた。

 「他の障害種の学校との統合」の問題について、寄せられた意見とそれに対する委員会の考え方からいくつか例を挙げると、次のような具合である。

【意見等】
 視覚、聴覚、知的の3障害を1か所にまとめることは安全面から考えて不安が残る。特に寄宿舎では火災などの非常変災時に対する対応の仕方が障害種別によって異なる。夜間の人員配置は考えているのか。
【考え方】
 統合に伴う安全対策については、十分に検討し、人員配置等に万全を期することは当然と考えております。

【意見等】
 最近の障害者福祉は、身体・知的・精神の3障害者施策を一元化する傾向にあり、その教育版が「特別支援教育」である。「障害種別の特殊性」への配慮が欠けている。職業的自立のためのより専門的な教育が望まれる。
 視聴覚障害者を一緒に学級編制すると、両障害児への教育は成り立たない。障害者種別ごとにクラス編制するとすれば、統合する意味はない。
 特に障害種別の中でもマイノリティである視覚障害、聴覚障害については、様々な職種への就労を実現している実績を踏まえて、単一障害児・者への教育の場の確保が不可欠である。計画には上記の観点が不足しているので、単一障害児・者への教育についての計画を追加してほしい。
【考え方】
 聴覚障害部門、視覚障害部門、知的障害部門を設置し、障害種別に学級編制をすることで専門的な指導を行うことができるものと考えております。また、行事その他で触れ合うことで障害の異なる者同士の相互理解も促進されるものと考えております。

【意見等】
 「愛媛県視聴覚福祉センター」では、両障害者の個人的交流は全くなく、交流が極めて困難である。一つの学校内に心の交流の難しい両障害者が通学すれば、戦前の盲唖学校に見られたように、新たな「いじめ」が起きる懸念がある。
 視覚障害者と聴覚障害者の間のコミュニケーションがとれない。事故や日常生活上での様々なトラブルの責任は誰がとるのか。
【考え方】
 これからの時代は、互いの障害について理解を深める指導をしたり、学校行事等で交流したりする中で、多様な障害を認め合い、共に生きることを学ぶことが大切であると考えております。また、県外の例でもコミュニケーションについて、ご指摘のような心配はないと考えており、学校では責任を持ってトラブル防止に努めることは当然と考えます。

【意見等】
 統合することで重複障害に対する教育の質があがることはない。個人個人に合わせた教育ができないので、医療との連携を図るべきである。
【考え方】
 統合することで、より個に応じた適切な教育が可能になると考えます。


《参照・リンク》
愛媛県県立学校再編整備計画(案)

《関連記事》
盲学校の統廃合問題 愛媛(1)
盲学校の統廃合問題 愛媛(3)

タグ : 盲学校 松山盲学校 盲学校を現在地に存続させる会

盲学校の統廃合問題 愛媛(1)

 盲学校の統廃合問題が、いちはやく最も具体的に顕在化したのは愛媛県であった。

 愛媛県では、2007年8月3日、愛媛県県立学校再編整備計画検討委員会による「愛媛県県立学校再編整備計画(案)」が検討され、8月14日にその結果が公表された。

 愛媛県県立学校再編整備計画検討委員会の資料には県立特別支援学校各校を取りまく課題が述べられているが、松山盲学校については、「幼稚部、小学部、中学部の在籍者数は少人数であるが、高等部の本科と専攻科の生徒が在籍者数全体の8割以上を占めている。現在の校舎は、昭和39年11月から昭和52年11月までに順次整備されたものであり、老朽化している。 」としている。
少人数化と校舎の老朽化が問題だというわけである。

 検討委員会の結論は、「松山聾学校へ移転統合」であった。
その結果、松山聾学校は「知的障害高等部の新設」を含めて、「聴覚障害、視覚障害、知的障害を対象とする特別支援学校へ移行」するとされた。

 少人数化に対しては、他校との統合。
盲学校は県内唯一であるから、他校というのは必然的に、異なる障害種の学校ということになる。

 老朽化に対しては、移転。
現在の場所を捨てて、異なる障害種の学校の所在地へ行くということである。

 この再編整備計画(案)を受けて、8月14日から9月3日までの間、意見募集(パブリックコメント)が行なわれた。
パブリックコメントでは、高等学校の再編整備について72名から26件の意見が出されたのに対し、特別支援学校については678名から71件の意見が寄せられた。
これらの問題を決して看過できないという、関心の高さをうかがわせる数字である。


《参照・リンク》
愛媛県県立学校再編整備計画(案)

《関連記事》
盲学校の統廃合問題 長野
盲学校の統廃合問題 愛媛(2)
盲学校の統廃合問題 沖縄(1)

タグ : 盲学校 松山盲学校

八ツ橋とクレープ

 「八ツ橋」を検索しているうち、【裏オンライン和英辞典】というサイトに遭遇した。

 外国人に英語で日本のことを紹介するとき、日本独特の「表現」や日本にしかない「もの」の翻訳に困ったことありませんか? 本サイトでは、特に翻訳が面倒と思われる日本語を厳選し、その英語訳を紹介しています。 ―― という趣旨のサイトである。

 確かに、菓子の「八ツ橋」は日本独特のもので、翻訳も難しそうだ。

 以下、【裏オンライン和英辞典】の「八つ橋」のページから引用。

    ----------------
【実況中継】
パーソナリティ: はい、「八つ橋」の英語訳です。
さっそく画面で確認してみましょう。

【八つ橋】

cinnamon-flavored crepe
    ----------------

 シナモンの香りのクレープ ――。
もしかしたら、これは「八ツ橋」ではなく「生八ツ橋」の英訳なのではあるまいか。

 本来の八ツ橋は、原宿名物のクレープとは違い、グニャグニャと柔らかなものではない。
最近ではグニャグニャの生八ツ橋のほうが人気があるようだが、本来は湾曲した板状の固い焼き菓子である。

聖護院八ツ橋。

        原宿竹下通り。クレープの店に群がる人々。


 京都の銘菓「八ツ橋」が、八橋検校にちなんで、筝の形をかたどってつくられたものであるという事実は、もっと知られてもよいように思う。


《参照・リンク》
【裏オンライン和英辞典】「八つ橋」

《関連記事》
聖護院界隈2

タグ : 八橋検校 八ツ橋 生八ツ橋 クレープ

盲学校の統廃合問題 長野

 先日の信濃毎日新聞に、長野盲学校などの統合再編に関する話題が報じられていた。

    ----------------
長野の盲、ろう、養護3校再編案に反対アピール

 長野盲学校同窓会や県聴覚障害者協会、県教組障害児教育部などでつくる実行委員会は1日、長野市内で「障害児の豊かな教育の保障を 6・1緊急集会」を開いた。県教委が5月に示した長野盲、長野ろう、長野養護の3校(いずれも長野市)の再編案に反対し、教職員の増員や盲、ろう学校の単独存続を求めるアピールを採択した。
 県教委は、改築するろう学校に盲学校を移転、併設し、盲学校校舎に長野養護の一部児童・生徒が移る案と、盲、ろう学校の校舎に長野養護の一部が移る案の2つを示している。
 集会には約130人が参加。県教委の特別支援教育連携協議会委員でもある下田有輝・長野養護学校教諭は「再編は建物の老朽化が動機で、障害の異なる子どもたちが一緒になる必要性といった教育論が語られていない」と批判。盲、ろう学校に、それぞれ乳幼児期から卒業後までを支援する「専門性の高いセンター的機能」を持たせるほか、養護学校を2校新設し、学校の小規模・分散化を進める再編私案を説明した。
 実行委員長の宮崎勇・全国障害者問題研究会長野支部長は「障害の種類を無視した再編では、子どもの成長や発達の保障に限界がある」と批判した。
(信濃毎日新聞 2008年6月2日)
    ----------------

 昨年度、大きな話題となった愛媛や沖縄などの事例と同根の問題といえるだろう。

 全国の盲学校の在籍者数は4000人を割り込んでいる。
最も多かった40年ほど前の3分の1以下の人数である。
47都道府県のうち、盲学校(特別支援学校と名称変更されたものも含めて)が2校以上あるのは10あまりに過ぎず、県内に1校のみというところが大半を占める。

 少人数化の進む盲学校・聾学校と対照的に、知的障害養護学校は児童生徒数が増加して過密化の傾向にある。
学校の「適正規模」や児童生徒にとっての「適度な集団」を求めて再編しようとすれば、盲学校の行き着く先は、おのずと他の障害種の学校との統合ということになる。

 個々の児童生徒の状況に応じて、より柔軟な対応が可能になることが「特別支援教育」の特長であったはずだが、学校の設置・配置の問題としては、依然として「ハコモノ」の呪縛から解放されないでいる。


《参照・リンク》
信濃毎日新聞 2008年6月2日

《関連記事》
盲学校の統廃合問題 愛媛(1)
盲学校の統廃合問題 沖縄(1)

タグ : 盲学校 長野盲学校

聖護院界隈 2

 東大路通をはさんで熊野神社と向かい合う位置には、もう一つの代表的な老舗である聖護院八ツ橋の店があるが、これは支店。
本店は、これから歩く春日北通沿いにある。
春日北通の角を曲がってほどなく、右側に聖護院八ツ橋の総本店が見える。

聖護院八ツ橋総本店。

 聖護院門跡を左手に見て、須賀神社の前を通る。
その先の三叉路に古い道標があった。
南側に「右くろたに」、東側に「左ちおんゐん」の字が読み取れる。
北側の面には「右北野天満宮」とある。
金戒光明寺はもうすぐだ。

金戒光明寺の近くの道標。


 そのまま寺域に入ると、駐車場。
駐車場の前に山門。
ここから階段を上る。

 駐車場前から山門へ向かわずに、迂回して右側の坂を上る道もある。
こちらの道を選ぶと、くろたに幼稚園の先に、塔頭の一つ、常光院がある。
通称「やつはしでら」として知られている。
「八はしでら」の文字が刻まれた門前の標柱は琴柱をかたどっている。

常光院。

常光院の標柱。


 どちらを通っても、金戒光明寺大方丈の前に出る。


《関連記事》
聖護院界隈1
八ツ橋とクレープ

タグ : 八橋検校 常光院 八ツ橋

聖護院界隈 1

 先の黒谷訪問の際には東天王町バス停からの道を歩いたと書いた。
距離だけで言えば確かに東天王町は最寄りのバス停には違いない。
実を言うとこれは、脇道からいきなり境内に入ってしまうようなルートである。
西側からの道が、本来の正面入口であるらしい。

 同じく京都駅からバスで行くならば、市内循環の206系統で熊野神社前で下車、丸太町のひとつ北の春日北通という道に入って聖護院門跡の前を行くことになるだろう。
山門の下までは迷うことのない一本道である。

 東山丸太町の交差点に位置する熊野神社。
ここには「八橋発祥之地」の石碑と西尾為治の銅像がある。

熊野神社。

      八橋発祥の地の石碑。

            西尾為治の銅像。


 熊野神社の並び、東大路通に面して大きな提灯が目印の西尾本店。
京都銘菓八ツ橋の老舗の一つである。
その12代目の西尾為治(1879〜1962)は、八ツ橋の発展のために心血を注ぎ、八ツ橋中興の祖と称された。

西尾本店。


《関連記事》
八橋検校の墓と碑

タグ : 八橋検校 熊野神社 八ツ橋 西尾為治

八橋検校の墓と碑

 近世の筝曲の確立者として著名な八橋検校(1614〜1685)は、奥州の平(福島県いわき市)の生まれといわれる。
はじめ摂津で三味線の名手として名を高め、その後、江戸に出て筑紫筝を学んだ。
寛永13年(1636)に勾当、同16年(1639)には検校に任ぜられている。
後に筝曲の改革に着手して、いわゆる八橋流を確立し、寛文3年(1663)ごろからは京都に住んで多くの門弟を育て、72歳で没した。
墓は京都黒谷の金戒光明寺にある。

金戒光明寺御影堂。


 数年前の夏、金戒光明寺を訪ねた。

 京都駅から市バスの5系統に乗って、東天王町で下車。
そこから西へ歩くと岡崎神社。
その先の本願寺岡崎別院との間の参道を進む。
しばらく行くと上り坂となり、ほどなく大伽藍が見えてくる。

 黒谷の寺域は広い。
当然、墓地もまた広い。
墓地は、大方丈や御影堂を取り巻くように東西に広がる。
古い墓は、東側に多いようだ。
御影堂から東へやや下ると、池がある。
池にかかる橋を渡ると、その先に長い石段が続く。

 目指す八橋検校の墓は、石段を上りきった文殊塔の裏側にある。
どちらからも行けるが、右から回ったほうがやや近い。

八橋検校の墓。

        八橋検校ノ碑。


墓の横には「八橋検校ノ碑」がある。

    ----------------
八橋検校ノ碑

八橋検校ハ慶長十九年陸奥
岩城ニ生ル年少江戸ニ出デ
三絃ノ技ニ名アリ偶マ筑紫
筝ノ数曲ヲ学ビ真諦ニ通ゼ
ントスル念止ムベカラズ奮
励艱苦ヲ冒シテ九州ニ下リ
終ニソノ奥義ヲ極ム業成ツ
テ京都ニ帰リ住ムヤ古典ノ
神韻ニ尚創意ノ潤飾ヲ加ヘ
テ組唄十三曲ヲ作ル律格調
和ヲ愛スル生来ノ好尚ト情
ニ厚ク感性ニ敏カリシ天稟
ノ鋭トヲソコニ併セテ古典
創作ノ大業ヲ新時代ノ意義
ニ於テ完成シ近世筝曲ノ開
祖トシテ世ノ尊崇ヲ受ク俊
髦ソノ門ニ集リ以後同流全
国ニ普及シテ今日ノ盛運ヲ
見タリ昭和九年第二百五十
年忌ニ際シ全国思慕ノ同志
塋域黒谷金戒光明寺内ニ碑
ヲ建テ後進邦楽家ノ上ニ及
ブ啓示ノ愈ヨ強力無窮ナラ
ンコトヲ期シテ厚ク検校ノ
霊ヲ祀リソノ偉功ヲ称揚ス

 文学博士 太宰施門 撰文
 大僧正 郁芳随圓 題字

 大日本筝曲會聯盟
    ----------------


《関連記事》
聖護院界隈1

タグ : 八橋検校 筝曲 金戒光明寺 検校

本間昭雄さん/塙保己一賞

 本間昭雄さんは20歳の時、医療事故で失明するが、そのことによって後に社会福祉の道に進む。
自身と同じ境遇の失明者の福祉ために、聖明福祉協会を設立。
そして、盲老人ホームの建設や盲学生のための奨学金制度の創設などの事業を成し遂げる。
そこには常に、妻・麻子さんの協力があった。

    ----------------
彼は病院を退院すると、まず点字を習った。二三歳の手習いであった。半年で点字を習得すると、次は社会事業大学の門をたたいた。盲人の前例がないということで、大学側は難色を示したが、彼の熱意に押されて、一般の学生とともに学ぶことを許された。夕方、当時都庁に勤めていた後の夫人と、新宿で待ち合わせ学校へ行き、帰りは夜食のパンをかじりながらの通学であった。二年間、社会福祉の専門的な学習を終え、一九五三(昭和二八)年三月、卒業証書を手にすることができた。その年の五月、まさに二人三脚で通い詰めたよきパートナーと、結婚することができた。
(『盲人福祉事業の歴史』161ページ)
    ----------------

 昨年度、本間さんが、創設されたばかりの塙保己一賞で第1回の大賞を受賞したことは記憶に新しい。
 本間さんは塙保己一大賞の受賞に際し、“盲人の幸せを願い、人生終末のホーム作りに努力してきた事”、“盲目の若者に「夢と希望の灯」を灯すべく盲大学生奨学金制度を創設し、今日まで多くの学生を援助し続けてきた事”が認められたと述べている。

 第2回の塙保己一賞の候補者募集がきょう6月2日から始まった。
募集期間は9月1日まで。


《参考文献》
谷合侑;『盲人福祉事業の歴史』,明石書店(1998).

《関連記事》
本間麻子さん逝去

タグ : 本間昭雄 本間麻子 塙保己一賞

本間麻子さん逝去

 過日のJBS日本福祉放送で、本間麻子さんの逝去が報じられていた。
ご冥福を祈る。

    ----------------
●社会福祉法人 日本盲人社会福祉施設協議会 ・ 
日盲社協の理事長である本間昭雄さんの令夫人で、
社会福祉法人 聖明(せいめい)福祉協会の名誉園長である本間麻子さんが、
5月27日火曜日の未明にお亡くなりになりました。

1929年生まれの79歳でした。

本間麻子さんは、本間昭雄理事長と共に、1955年に視覚障害に関する相談事業を開始。
その後、社会福祉法人 聖明(せいめい)福祉協会を設立し、
長年に渡って盲老人ホームの経営に従事されました。
なお、その間、1993年に第27回吉川英治(よしかわ・えいじ)文化賞、
2001年に鳥居伊都(とりい・いと)賞、
また、昨年には、平成19年秋の叙勲で、
瑞宝双光章(ずいほうそうこうしょう)など、数々の賞を受賞されています。

なお、葬儀は密葬で執り行われますが、後日、別途お別れ会が行われる予定です。
    ----------------

 吉川英治文化賞は、聖明福祉協会理事長の本間昭雄氏とともに夫妻での受賞である。
同賞は、「日本文化の向上につくし、たたえられるべき業績をあげながらも、報われることの少ない人、あるいは団体」を対象としているが、過去の受賞者の中には、高橋竹山、本間一夫、松井新二郎、福島智、桜井政太郎の各氏ら、視覚障害者の文化や福祉に多大な貢献をした障害当事者の名も数多く見られる。


《参照・リンク》
JBS日本福祉放送 2008年5月30日

《関連記事》
本間昭雄さん/塙保己一賞

タグ : 本間麻子 本間昭雄 聖明福祉協会 吉川英治文化賞 JBS

| TOP |