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日本の音楽と欧州の音楽を同化せよ 目賀田種太郎と音楽

 たばこと塩の博物館の特別展「目賀田種太郎と近代日本」は、第1章から第6章まで、6部立ての構成になっている。

 第1章 目賀田家、江戸へ ―目賀田氏の系譜―
 第2章 神童と呼ばれる ―江戸、静岡、そしてアメリカへ―
 第3章 日本の音楽と欧州の音楽を同化せよ
 第4章 近代国家法学教育の必要性を説く
 第5章 たばこや塩を国家財源に ―大蔵官僚としての事績―
 第6章 目賀田種太郎と愛荘町目加田

 この特別展全体の中では大きな比重を占めているわけではないが、第3章で目賀田と音楽教育の関わりが扱われている。
目賀田は、2度目の渡米中に滞在したボストンで伊澤修二(1851~1917)とともに、ルーサー・ホワイティング・メーソン(1818~1896)にアメリカの音楽教育を学び、後年メーソンを日本に招聘する。

 「同化せよ」というのが、少々気になる。
「西洋化せよ」とか「西洋音楽を取り入れよ」とかというのではなく、「同化」である。
どういう意味だろうか。


 話は変わるが、10月22日に、東京都文京区で日本盲教育史研究会の第5回の研究会が行われた。
そこでの研究発表の中に、お茶の水女子大学大学院の村山佳寿子氏のものがあった。
題は「昭和初期における箏曲の点字記譜法の特徴」という。
筑波大学附属視覚特別支援学校資料室蔵「宮城道雄作曲集」を例として、という副題がついている。

 発表の要旨は概ね次のようなことであったように思う。

 箏曲の点字記譜法にはいくつかの方式があるが、狭義の点字記譜法は西洋の点字楽譜のシステムを基にした記譜法ということになる。
ブライユ点字は、縦3点、横2点という世界共通の形態を持つため、共通の方法に基づいて音の高さと長さを表すことができる。
西洋音楽の点字楽譜の記譜法に「すくい爪」「引き連」「流し爪」「裏連」など、箏曲独特の手法記号を加えることで、箏曲の楽譜も点字で表記することが可能になる。
さまざまな試行錯誤を経て、箏曲の手法記号は整理改変され、宮城道雄に至って、西洋音楽の中で用いられているものが転用されるようになる。
このようにして、西洋音楽を書き表すための点字楽譜が、日本の伝統音楽に取り入れられていった。

 必ずしも目賀田が考えた「同化」と合致するものではないかもしれないが、「西洋化せよ」「西洋音楽を取り入れよ」ではない「同化」が、邦楽の側の営みから図らずも実現に近づいているようにも思えるのである。



《参考文献》
 学校法人専修大学(編集);『目賀田種太郎と近代日本 教育者・法律家・官僚として』,学校法人専修大学(2016). 特別展図録
 日本盲教育史研究会第5回研究会発表資料,日本盲教育史研究会(2016). 

《関連記事》
目賀田種太郎と点字

タグ : 目賀田種太郎伊澤修二音楽日本盲教育史研究会点字点字楽譜箏曲宮城道雄

目賀田種太郎と点字

 すでに会期も半ばとなっているが、東京都墨田区のたばこと塩の博物館で特別展「目賀田種太郎と近代日本」が開催されている。
会期は9月17日から11月6日までとのことである。
たばこと塩の博物館と言えば渋谷だ思っていたのだが、昨年4月に墨田区横川に移転していたのを、実はこのたび初めて知った。

 目賀田種太郎(1853~1926)は、専修大学の創立者のひとりで、今回の展示も専修大学140周年記念事業であり、大学との共催である。
「教育者・法律家・官僚として」という副題がついている。

 嘉永6年(1853)7月21日、江戸に生まれ、神童と呼ばれるほど優秀で、10歳で昌平黌に入学。
ほどなく時代は明治維新を迎え、明治3年(1870)、文部省初の国費留学生としてアメリカへ赴く。
明治8年(1875)には文部省八等官という官僚として、留学生を監督するという立場で再度渡米、明治12年(1879)に帰国する。

 この特別展では触れられていないが、アメリカのボストンに滞在していた目賀田はパーキンス盲学校も訪れている。

 帰国の前に原稿を書いて日本へ送ったものであろうか、文部省の『教育雑誌 第89号』(1879年2月5日発行)に「監督雑報 第一三号 盲院」という文章がある。
この中で、点字やその他の盲人用文字に関する記述がある。

    ----------------
 文字ノ読方ニ三種ノ方法アリ。
 第一ハ、平常ノ国字ヲ紙上ニ凸起セシメタルモノニシテ、之ヲ手ニテ模索シテ読ムナリ。…(中略)…
 第二ハ、英国モウン氏ノ読方ト伝ヘル「エビシ」ノ仮字ナリ。即チ其ノ本画ヲ幾分カ省略シタルモノニシテ、猶ホ我ガ片仮名ノ如シ。…(中略)…
 第三ハ、仏人ブレール氏ノ読方ナリ。此ノ解左ノ如シ。(以下略)

(『資料に見る点字表記法の変遷 ―慶応から平成まで―』,24~25ページ)
    ----------------

 第一の方法は「成人ノ後明ヲ失ヒシモノ」や「知覚魯鈍ナルモノ」には困難であり、第二の方法は第一のものと比較すればやや良いとしている。
 第三の方法「仏人ブレール氏ノ読方」については、点字器の構造や点字の形について詳しく解説し、三種のうちで「最モ良シ」、「最モ容易ニ之ヲ我邦ニ採用スルコトヲ得ベシ」と結論づけている。

 日本点字が制定される10年余り前のことである。
「ブレール氏ノ読方」を最適なものとした目賀田の先見性がよくわかる。


《参考文献》
 日本点字委員会;『資料に見る点字表記法の変遷 ―慶応から平成まで―』,日本点字委員会(2007). 

《参照・リンク》
たばこと塩の博物館 > 特別展「目賀田種太郎と近代日本」

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タグ : 目賀田種太郎点字盲学校

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