幻の盲学校 明心会導盲院(1)

 1880年代には、京都や東京に次いで、全国の各地で盲学校あるいは盲唖学校の設立が計画されている。
しかし、その大部分は計画されても実現に至らなかったか、あるいは開校しても短命に終わった。
『世界盲人百科事典』によれば、東京に楽善会とは別の学校があったことや、そのほかにも鹿児島、堺、金沢、大津、神戸、高知、新潟で盲学校設立の企てがあったことが知られる。
これら地方の盲学校設立計画の中で、開校にこぎつけることができたのは、金沢、高知、新潟のみであるらしく、そのほかは計画で終わってしまったようである。
『世界盲人百科事典』には、それらの事例と並んで、埼玉県の盲人学校についても述べられている。

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 〔埼玉県〕 1883年4月,杉山猛雄ら3人の盲人が設立した埼玉県入間郡入間村の盲人学校は,当時としては珍しく順調な歩みを続け,生徒数も増加し,寄付金も集まったので,1886年には西洋風の校舎を建築したが,間もなく廃校になったようである.
(『世界盲人百科事典』313ページ)
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 埼玉県入間郡入間村(現在の狭山市)の盲人学校とは、『新編埼玉県史』の中に見出される「明心会導盲院」のことである。
以下に引用したのは、「明心会導盲院規則」の総論にあたる前半部分である。
明治15年5月の日付があるから、実質的には開校に先立つ設立趣意書であり、翌16年(1883年)に正式に開校したと考えられる。

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  明心会導盲院規則
 明心会
夫れ人の性たるや天然の明徳備りて明なり、其の明ならんことを欲するは一身の徳行にあらざらんや。
其明心は一身の本にして性情或は私欲に蔽はれ依りて善悪の別を生ず。
嗚乎、是れ人生何を以か明心の徳に入らんや、況や人体不具にして盲目の徒たるに於てをや。
往昔支那中国には盲人をして音楽を習はしめ、官に命して楽を奏し人心を和げしむ。
皇国にも則楽官に附かしめ貴人高位の席に進んで音楽を奏することは則日本、支那同一の風習にして而も後世其の風稍衰へて音楽其の配当を得ず。
遂には金を以其位に就かしむる等の悪習起り、後には遊芸に耽り三味線等の劇れに其の纏頭を受け廃疾者をして紛華淫伕の風に至らしむ。
是れ何事ぞや、時勢の風習と其の人の懶惰とに由るにあらずや。
又盲人の所業たるや人の健康を助け揉療治として保養を施し、殊に鍼治の法に至りては人身精(生)理の本義にして専ら良法を行ふ可きの術なり。
然るに、其良法時の風習と懶惰に従て自ら其名のみ存して其実を失ふ。
且つ其害を生ぜんこと、又謀るべからず。
今百事維新の際に当つて全く昔の弊風を改め、上下人民自由の権利を以貴賎高位共に和睦し、上は下を恵むこと父母の子を愛する如く、下にしては子の父母に親むの風情起る。
是れ善政の行はるゝ所にあらずや、況や廃疾者且つ形体不具の人生をして是を教育せしむるの善謀無あらんや。
因て今回我輩一、二の同志会議して導盲の赤心を立。
明心の徳に入らんことを、幸ひに文明の時に際し西洋各国の教を見るに訓盲の学校を開く。
因て我輩有志者を結合して、政府人民の力を乞はず自ら導盲の学校を設立せんとす。
然りと雖其人単独微力なるときは心力を尽せども功を奏する能はず。
願くは衆盲の会議合力を俟つて建設の由て起る所を協議し、然して其業方を開き爾後陸続として微力の盲人をして独立の法方(方法)を企、共に勉強の功を積んで敬神愛国の一挙あらんことを。
因て我輩協議し此に着手して業を励み身を抛つて導盲の規則に習ひ、衆力を乞はず私費を以、往々盛大に至らんことを希望す。
願くは四方の君子人我輩の精心感情あらば是に過ぐるの幸ひたらんことを。
 明治十五年五月
(『新編埼玉県史』資料編25 580〜581ページ)

※原文は漢字と片仮名で記されているが、片仮名は平仮名に改め適宜濁点を補った。
 また文意にしたがって一部の読点を句点に改め、改行した。
 文中のカッコ内は『新編埼玉県史』編纂者が誤字を改めたものである。
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 人間の本性には、身体の障害の有無とは関わりなく「天然の明徳」が備わっているという。
古い時代の美風を懐かしみ、近時の堕落を嘆き、そして新しい時代の到来を機に、新たな慈善事業を起こそうとする。
「明心会導盲院規則」に現れている障害者を表現する用語などには、現代の基準からすれば違和感もあるだろうが、それはひとまずおく。
一読した限り、この盲人学校の設立の動機は、まことに純粋で美しく感じられる。

 この時代に芽生えた盲聾教育は、文明開化の所産という言い方もされるように、一種の観念的な理想に立脚しているもののようだ。
安定した経済的基盤もなく、果たしてどこまで成算があったものか。
この時代、全国各地に数多くの盲学校の設立が計画されたが、その大半は実を結ぶことなく終わった。
このような学校を設置運営することが相当に困難な事業であったことだけは間違いない。

 入間村は現在の狭山市の南部を占める地域で、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行に際して、南入曽村、北入曽村、水野村の3村が合併して成立し、1954年に周辺町村の合併によって狭山市が成立するまで存続した村である。
したがって、明心会導盲院の盲人学校が開校した当時は、まだ入間村という村名は存在していなかった。
それが入間村の盲人学校と呼び習わされているということは、少なくとも入間村が成立した1889年ごろまでは存続し得たのかとも想像される。


《参考文献》
 世界盲人百科事典編集委員会(編);『世界盲人百科事典』,日本ライトハウス(1972). 復刻版=日本図書センター(2004).
 『新編埼玉県史』資料編25,埼玉県(1984).

《関連記事》
幻の盲学校 明心会導盲院(2)

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